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カテゴリ:日本国の生い立ち
終戦記念日にちなんで、少し長い文章を書きます。
杉原千畝の発給したビザがユダヤ人を救った話は以前から聞いていましたが、どうして違法なビザが無効にされることなく日本政府が受け入れたのか不思議に思っていましたが、毎週参加している「日本ルーツ・トラの巻勉強会」の場で以下の8点の事実の紹介があり、杉原千畝の行動は、日本政府の方針に則っていたことがわかり、納得しました。 1)1919年:日本は、パリ講和会議で国際連盟規約に人種差別撤廃を講和条件に盛り込むよう主張し、出席者16名中11名の賛成多数を得た(反対国:イギリス、アメリカ、ポーランド、ブラジル、ルーマニア)。 2)1934年:鮎川義介は、迫害から逃れたユダヤ人を満州国に招き入れ自治区を建設する計画を提唱した。 3)1937年:第1回極東ユダヤ人大会で、ハルピン陸軍特務機関長を務めていた樋口季一郎陸軍少将は、ナチ党政権下の反ユダヤ政策を、激しく批判する祝辞を行った。(ドイツは前年に日独防共協定を締結していて同盟国であった。) 4)1938年:ドイツの迫害下から逃れてきたユダヤ人がソ満国境沿いにあるシベリア鉄道・オトポール駅で足止めされていた。樋口季一郎は、関東軍参謀長であった東条英機中将の許可を得て、河村愛三少佐らとともに即日ユダヤ人への給食、衣類・燃料の配給、加療、出国の斡旋、満州国内への入植や上海租界への移動の手配、松岡洋右満鉄総裁の了承を取り付けた。この「ヒグチ・ルート」で2万人が救われたと言われている。 5)1938年:安江仙弘(やすえのりひろ)が当時の陸相・板垣征四郎に働きかけて策定された猶太人対策要綱(ゆだやじんたいさくようこう)が、近衛文麿の最高首脳会議である五相会議で決定され、ユダヤ人を他国人と同様公正に扱うこととされた。(ただし、ユダヤ避難民の日本への入国は、経由地としての通過に限るとされていた。) 6)1939年:アメリカ、中南米、パレスチナなどが入国査証の発給を制限しシャットアウトの政策(セントルイス号アメリカ上陸不許可、英国議会、ポグロム等)をとっている中、犬塚惟重海軍大佐、安江仙弘陸軍大佐、外務省の石黒四郎の3名による「回教及猶太問題委員会」は、「日本は上海郊外にユダヤ人自治区を設立して、さらに多くのユダヤ人を集めるべきである」との見解をまとめた。実際、唯一、上海の共同租界、日本海軍の警備する虹口地区でビザなしユダヤ難民1万8千人等が安全に暮らした。 7)1940年8月:杉原千畝によるビザ発給。実際、杉原が発給したビザでウラジオストックから敦賀に上陸したユダヤ人は、有効なビザ所有者として、日本国内で人道的保護を受けた。 8)1940年9月:枢軸国(ドイツ、日本、イタリアの日独伊三国同盟を中心に、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアの東欧諸国、フィンランド、タイ、イラク等植民地を持たない国等)協定が調印された。ベルリン、プラハ、ウイーンの日本領事館担当官は、その後も引き続きビザを発給し続けた(メロン・メッツィーニ、『日章旗のもとでユダヤ人はいかに生き延びたか』)。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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