テクノロジーを超えた潔斎
潔斎は、個の花道場のテクノロジーの中でも特にすごいものだと思っていた。中今の潔斎今、自分が100%で取り組めるよう、心に引っかかっているものを取り除くこと。そのために、なんとなく思っていること、もやもやとしていることなどを言葉にして顕す。言葉にして発すると不思議とそれが消える。子ども達がよく「ウザイ!」という。これも、きちんと「なにが」「どう」いやな気分にさせているのかきちんと言葉で表現することで消えていく。実際に子どもと話ししていて、「何が、どうウザイの?」「それで?」「ああ、それはこういうことかな?」などど話しているうちに、「あ、先生、もういい。わかった。俺が悪かったんだ。」「あ、そうなの?もう大丈夫?」「ああ、大丈夫。なんかすっきりした。」なんて会話が、2度ほどあった。これも潔斎の一つだと思った。人生の潔斎自分が何かしようとした時に、ちょくちょく顔を出しブレーキをかけること。自分の人生を前進させようとする時に、必ず出てきて妨げようとすること。それを潔斎する。「罪(包身)穢れ(気枯れ)をお祓いする」というのも気づかないうちに自分を包んでしまって、気を枯らしてしまっているようなことを祓うことだそうだ。潔斎はお祓いと通じるものがある。人生のお祓いだ。私達は普通、過去に「起きたこと」と「自分の解釈」を一緒にグルグル巻きにして、あたかも事実であるかのように扱っている。でもそれをきちんと「起きたこと」は何で、「自分が解釈していること」は何なのかということを明確に分けてみる必要がある。それができると、事実だと思い込んでいたことに、実は単に自分が勝手に解釈していたことかもしれないという隙間ができる。例えば、離婚の原因をさかのぼってみる。何が起きたことで、自分が解釈していることは何なのかを明確にしてみる。すると、不思議と今まで人のせいにしていたことが、もしかしたら自分が勝手に解釈していたことが原因だったかもしれない、という可能性に出会う。これは確かめてみたくなるものだ。離婚以来、何年も連絡を取っていなかった相手に確かめてみる。その中で、なぜか「ごめん。」と謝っている自分がいる。離婚の原因は、相手の方が一方的に悪いと思ってたにもかかわらず・・・。そんな奇跡的なことさえ起こるのだ。「自分の場に起きていることは、全部自分に責任があると受け入れることができる。」それが潔斎の根本だ。人を潔斎する。起きたことと解釈を区別し、その場に起きたことは自分に責任があると受け入れる。そしてそのことは、どんなにつらいことであっても、その人の人生のためになっていると受け入れられるようにする。そのことで人は潔斎される。「これは、すごいテクノロジーだ。」と思い込んでいた。でもそれは、とんでもないことだった。途方もない勘違いだった。リーダー見習いでリードさせてもらった時、なにか潔斎し切れていないものを感じた時があった。中学生の頃に戻って、ずっと引っかかっていたことを取り出し、表面上素晴らしく潔斎されたかのように見えていた。でも、そうじゃなかった。それはなんだったんだろうと、ずっと申し訳ないという気持ちと共に、心に引っかかるものが残っていた。そんな時、ある人から「大きな問題を抱えていたけれど、一瞬にして潔斎された。」という話を聞いた。どうして、あんなにも悩んでいたことが一瞬にして潔斎されたのか聞いてみた。そしてわかった。自分の伸びかかった鼻に冷水をかけられたような思いがした。人の潔斎で最も大事なことは、相手を「受け入れること」。「100%受け入れること。」そのことだ。宇宙には、全く同じものは存在できないという。相手を100%受け入れる。相手の気持ちを100%受け入れることができた時、初めて消えてなくなるのだ。最後のその部分は、テクノロジーなんかじゃない。最も大切な部分なのだ。そんなことも掴んでいなかった自分が、リーダー見習いをさせてもらっていたのは大変に申し訳ないことだとお詫びしたい。