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2つ並んだ黒い革靴の左側に足を突っ込み、踵に指を入れて無理やり収める。収まった勢いで、靴の底を床のタイルに打ち付けた。 カツンと鋭い音が玄関に響く。 ギクッとして、俺は片方靴を履いたまま、尻を滑らせて後ろに下がった。息を潜めてしばらくリビングの様子を窺ったけど、ヤツが起きてくる気配はない。ホッとして、もう片方の靴を半端に履いたまま、とりあえずそっと外に出た。 早朝6時。 「あー、さみー」 長い時間発していなかった俺の声は掠れていた。立春を過ぎたとは言え、一番寒い時間帯の外はきっつい。 「はー」 なんだか急に面倒くさくなってきたな……。まあ元々乗り気だったわけじゃ、ないんだけど。俺は、人肌で温められたベッドに後ろ髪引かれながら、会社に向かって歩き出した。 俺が生まれて初めて女の子に告白されたのは、あの初体験失敗の彼女だった。それから、全くなかったわけじゃないけど、気付かない振りして、のらくらかわしていたら、いつのまにか彼氏ができてた。そりゃそうだ、煮え切らない男を炊きつけるくらいなら、彼女狙いで、優しくしてくれる男を選んだ方がイイに決まってる。 でも別に、その頃はそれで良かった。むしろあんな面倒臭いことになるくらいなら、彼女なんていない方がイイと思ってた。 「でもお前はさ、本気で押されたら、負けるんだろうな」 その頃、ヤツがふとそんなことを言った。 「負けってなんだよ。好きでもないのに、勢いに押されてつきあっちゃったりするってことか?!」 机に片腕を乗っけて、斜めに見上げてくるヤツに、俺はムキになって突っかかった。 「……子どもだなぁ。つきあってみたら可愛く思えてくるもんだって。つきあってから好きなることもあるだろ?」 だから、押せ押せで来られたら、とりあえず押し倒されとけよ。と、笑うヤツに、俺は顔を顰《しか》めた。 だけど、実際俺はグラついた。原因はそれだけじゃ、ないんだけど。 ヤツとつきあってから1000日目に、ヤツから衝撃の告白をされて、俺はそれを許した。そしてヤツは許され、俺たちは今までとそう変わることなく過ごすんだと思ってた。 だけど何かが変わった。 ……少なくとも俺の中では。 俺は3年前のバレンタインの日、トラウマなんて嘘だったみたいにすんなりヤツとエッチした。それはヤツが女じゃなかったからできたことかもしれないし、俺たちがいい加減、あの頃よりは大人になってたからかもしれない。 去年、彼女が不倫相手と別れたって言ってきて、俺が彼女とつきあうんじゃないかって、ヤツの不安がヤツの中で爆発しそうになったとき、俺はそんなヤツの気持ちを汲んで、彼女のことは気にならないってきっぱり言った。そんでヤツはそんな俺に感動して、初めて、さわりっこじゃない本気のセックスをした。 俺は、ちゃんとできたってことに感極まって泣いてしまったけど……その時は気づいていなかったんだ。その意味に。 ヤツと義理兄とのことを知らなければ、俺は思いつきもしなかったかもしれない。少なくとも何年かは。 ……俺は、トラウマを克服したんだ。 平日の朝早くから、会社に向かうのは俺くらいなんじゃないかなんて思ってたけど、電車の中はもうスーツ姿の人で溢れてた。 普段見てないところで何が起きてるかなんて、考えてもみないもんだよな。まあ、それを知ったからって、何かいいことがあるわけじゃないし、中には知りたくなかったことだってあったりするわけだから、考えるエネルギー無駄に使ってんじゃねぇって感じだけど。 ―――考えたくなんて、なかったな。 だからって、一度考えてしまったことをなかったことにはできないわけで、そんなもやもやな気持ちを抱えたまま、電車を降りた。 会社の横にちょっとした公園があって、緑もあるし、日当たりも良いしで、暖かい日はそこのベンチで昼弁する人も結構いる。で、そんなところになんで俺がこんな朝早く来たのかと言うと……。 「あ! やっと来たー! もう、遅いじゃん。来ないと思って心配したんだからぁ」 オンナノコに呼び出されたからだ。 肩まで伸ばした髪の裾に、クリンクリンのパーマを掛けて、俺の姿を見つけるなり拳を突き上げてくる彼女は、去年入社した後輩で、会社の受付に座ってる子だ。 毎朝見てるのに、何かいつもと感じが違うなと思ったら、髪を結んでいなかった。コートの裾から制服のスカートが見えている。会社で着替えるんじゃ、ないんだな。 近づくと、突き上げた拳で胸元を軽く殴られた。 「……遅いって、朝早すぎだろ」 俺がコートのポケットに手を入れて、下向き加減でため息を吐くと、本気で怒ったと思ったのか、いつもは先輩にタメ口利くようなずうずうしさなのに、一瞬泣きそうな顔をした。俺はその表情にドキッとして、まあ、別にいいけど。と、口の中で呟いた。 「で、用事って何?」 こんな朝早く呼び出したんだし、よっぽどのことがあったんだろうと思って聞いたのに、泣きそうだった顔はどこへ行ったのか、彼女はうわぁって顔をして唇を突き出した。 「先輩、わかってて聞いてるんでしょう。もう、2月14日に呼び出したら用事はひとつしかないじゃん」 や、そりゃ、俺だってそうかなとは思ったけど……。 両手で差し出された高そうな包みを、首を突き出したハトみたいな御礼で受け取りながら、どんな顔したらいいのか、全然わかんなかった。 「でも大変だね、朝早くから配んなきゃなんないなんて」 俺が、彼女の足元にあるブランド名が書かれた大きな紙袋を見ながら言うと、彼女がまた俺の胸を殴った。 「何でそんなこと言うの? こんなのお歳暮と一緒だもん。先輩にあげたのは、ちゃんとしたやつなんだから」 「え?! これ、もしかして超高かったりすんの?!」 俺が手の中の包み紙をまじまじと見て、お返しのことなんかを考えてしまっていたら、不意に彼女が俺の手から奪って、それを胸に押し付けてきた。 「違うよ、そういう意味じゃない。ちゃんとって、本命だってこと!」 俺の胸に押し付けたまま、顔を上げようとしない彼女の背丈は、俺の肩くらいまでしかなくて、このまま抱きしめたら、きっとすっぽり納まってしまうんだろうな。なんて思ってしまう。 「受け取って、くれますか」 急にしおらしく言われて、俺は答えに躊躇した。 「……受け取るって、チョコレートを、だよね?」 俺の答えに小さくため息を吐くと、後輩はチョコレートごと手を俺から離した。でもまだうつむいたまま。 「先輩に彼女がいるのは知ってる。携帯の待ち受けの子。でもあたし、先輩のこと好きなの。2番目でもいい。でもその他大勢は嫌。もっと一緒にいたい。もっとあたしのこと、見て欲しい」 顔を上げた彼女の目が赤くなってた。びっくりして立ちすくむ俺の胸に、今度は額を押し当てて、俺のコートにしがみつく。 「きっと今夜は彼女と過ごすだろうから、朝一番に呼び出したの。誰より先に会って渡したかったの……先輩、あたしのこと、嫌い? 困ってる?」 「嫌い、じゃないけど……」 嫌いかって聞かれたら、そう答えるしかない。俺は、チョコレートを取られたままの手のやり場に困ってた。アイツだったら、こんな時どうするんだろう。なんか上手く対処しそうな気がするけど、俺はどうしたらいいのか全然わからなかった。 「俺、つきあってる人、いるし……」 「うん、わかってる」 「たぶん、俺なんかとつきあっても、イイことないと思うし……」 「そんなの私が決めることでしょ」 「え?」 後輩は俺の背中にスルッと手を回して、見上げてきた。目の淵は、もう赤くなかった。 「つきあって、イイことないと思ったら、そこでやめる。だったらイイ?」 「え? や……」 「決まり。ね、このチョコ、本当においしいんだよ」 何が決まりなのかわかんないんだけど、後輩は俺から離れると、バリバリとチョコレートの包みを破りはじめた。俺は押し付けられた包み紙を手の中で小さく丸めながら、本気で押されたら、負けるんだろうな。と言ったヤツの言葉を思い出していた。 箱に入っていたのは、ココアパウダーが掛けられた丸いチョコだった。後輩はそれを指で摘むと俺の口元に手を伸ばす。 自分で、食えるよ。と言う俺に、後輩は笑って、知ってる。って言った。仕方なく俺は目を瞑ってそれをパクリと食べた。ほんのちょっと、彼女の指までくわえてしまった。 「あ、うまい」 ほんのりラム酒の香りがして、でもきつくなくて、本当においしいチョコレートだった。後輩は、でしょ。と、自慢げに顔を擡《もた》げると、俺を見つめたまま、ココアのついた指を、舐めた。 「先輩の、味がする」 さっきまで、ちょっと強引なオンナノコ。だった後輩は、俺を欲情させるオンナ。に変わった。 俺は、そのまま近づいてきた、グロスで艶めいた唇を、避けることができなかった。 ―――負けってなんだよ。 でも俺は…… 番外編。っていうのかな。続きを書いてみた。 相変わらずこれは適当ですw でもバレンタインには終わらなかった。続くみたいw お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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