浅草花川戸町 七軒店
老忍、礫の退四朗の巻 1
錆びた刀じゃ人は斬れぬ
錆びた心じゃ生きてはいけぬ
仇も情けも身からでた錆び 動けやしねえ、
なあに、錆びついたって大丈夫だよ、
錆なんてのは、刮(こそ)げれば、落ちていくもんだよ、
でも、旦那、錆を落とす砥石が見つからねえんで、、
大川から舟の帆先を山谷の方へ曲げると、吉原遊郭に繋がる山谷堀がある。暮れ六ツ(午後6時頃)にもなれば、粋で優雅で助平な若旦那が胸をどきどきさせて、吉原遊郭へ通う舟で賑あうが、明け六ツ(午前6時頃)の山谷堀には、吉原遊郭からの朝帰りの客を乗せた猪牙舟が静かに水面を滑っていた。
船が今戸橋を潜ると、浅草今戸町の萱(かや)の原っぱが大川沿いに広がっていた。人の背丈より高い萱の白い産毛のような花穂が、風にゆらゆらと、気持ちよさそうに揺れていたが、突然、風がピタッとやみ、ザワザワと葉が擦れる音も消えた。
朝凪(あさなぎ)であった。大川に静けさが漂う時刻でもある。その沈黙を破るように、じっと頭を垂れた一面の萱の白穂が、一直線に揺れたか思うと、急に横に揺れ、斜めに揺れる。不思議な光景が繰り広げられた。兎が狐に萱の中で追われているのだろうか、、、、、?
その、萱の原っぱの中から、礫(つぶて)が飛んだ。大川の水を切って、ぴしゃぴしゃぴしゃ、と、いう音を立てながら水面を跳ねるように飛ぶ、礫が獲物を捕らえた。ビシャンという鈍い音がした。
大川の中程で、大きな鯉が腹を上にして浮き上がった。次の礫が飛んだ。ビューンという風を切る音がする。今度の礫は曲線を描くようにして、対岸の水戸様のお屋敷の横に広がる水田から飛び立った鵜を追いかけて命中した。鵜はギャアーという悲鳴を上げ、羽を散らして、田圃に落ちた。
萱の中から姿を現したのは、狐ではなかった。
「ふっー、まだまだ、錆びついてはいなんだわ、」暗く沈んだ眼をした、いくらか腰の曲がった老人が、ぼそっと呟いた。
老人の名は陰庭退四朗という。もう還暦を過ぎた爺さんで、草と呼ばれる下層の忍者だった。普段は庶民の生活の中に紛れて暮らし、密命がきたときだけ忍者としての仕事をするのである。
退四朗は、伊賀曲崖郷の忍者の中でも、礫の術に秀でいる忍者で、行列の籠の中の敵を礫で仕留めたり、賑やかな祭りの人込み中で、敵の眉間に礫を命中させたりすることは、朝飯前であった。伊賀の忍者仲間の間では礫の退四朗と呼ばれていた。
退四朗が、今戸町の萱の原っぱで礫の訓練を再開してから今日で三日目であった。怠慢な暮らしで礫術にも心にもびったりとこびりついていた錆は、徐々に剥がされていた。
(つづく)
作:朽木一空
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