浅草花川戸町 七軒店
老忍、礫の退四朗の巻 6
人が寄ってくるのは
おいしい餌があるからだろう
なにもなければ、だれもこない
人とは そういうものだ
下谷、新屋敷通りに面する鳥居耀蔵の私邸は広大な敷地の中にあった。だが、南町奉行に就任して以来、数寄屋橋御門の奉行所の奥の座敷で日夜忙しく働き、私邸でくつろでいるのは非番の時だけで、ひと月ぶりのことである。
庭の真ん中に掘られた瓢箪池の括れた橋の上から、餌を撒くと、優雅に体をくねらせていた錦鯉が。我先にぴしゃぴしゃという音を立て、競うように集まってきて、ぱくっと大きな口を開けて、餌を吸い込む。餌がなくなれば、背を向けて泳いでいく。
「誰でも、餌があるから集まってくるのよのう、餌がなければ、誰も寄り付きはせぬ、他人は自分についてくるのではないのだよ、これを忘れてはならぬぞ、なあ、彦五郎」
鳥居耀蔵は錦鯉の動きを眺めながら、独り言のように留守居役用心の彦五郎に呟いた。
下谷練塀小路の裏門を潜って、赤田左膳は鳥居耀蔵の待つ、部屋へ通された。六尺を超える大男で、総髪に派手な模様の、二重の着流し、捲りあげた腕には龍の刺青、眼光鋭く、ふてぶてしい態度、南町奉行鳥居耀蔵に面会するには不釣り合いであったが赤田左膳は島送りか妖怪の手下になるか、どっちみちのやぶれかぶれの心境であった。
「これ、赤田左膳、お奉行の鳥井様であるぞ、控えよ!」
「よいよい、いかましい面構えだ、お主が江戸で暴れている旗本奴の赤田左膳じゃな、泣く子も黙る恐ろしき傾奇者たちという噂じゃ、、なるほどなるほど、あっはっはっ」
鳥居耀蔵は、愛用の長煙管で煙草盆をぽんっぽんっと、と叩き、左膳の顔を覗いた。
武家諸法度を無視し反発する傾奇者の集団は、本来、奉行所としてしては、風紀と治安を乱すものとして厳しく取り締まるのが筋であるのだが、鳥居耀蔵にはある狙いがあった。風俗取締りの天保の改革を進めていくには、与力同心だけでは到底手が足りず、悪の枢軸にはなかなか切り込めないでいた。
蛇の道は蛇、悪には悪の眼、澱んだ泥の中に潜り込んでいる悪を掘り出すのには善では難しかった。与力、同心は所詮お坊ちゃまで、悪の蔓延る、悪所街の取り締まりには不向きだった。
やくざや博徒に十手を預ける同心までいて、岡っ引きとして、犯罪捜査の手助けまでしてもらい、そのかわり、賭場や悪所の取り締まりには手心を加え、賄賂も受け取っていた。やくざや博徒と与力同心は持ちつ持たれつの関係にさえなっていた。
それで江戸の町の平和の均衡が取れていたともいえたが、、、賄賂や忖度のないきれいごとだけで、政事(まつりごと)が進まないことは鳥居耀蔵は理解していた。
奉行所内でも知っているものが少ないが、鳥居耀蔵自身も直属の密偵、忍者、必殺仕事人を多数抱えていた。与力同心だけでは到底江戸の事件は片づけられなかった。また、表にだせぬ裏の事件を解決するためにも
彼らが必要であった。それにはかなりな資金が必要だった。いくら権力があろうとも、人は金がなければ動きはしない。
鳥居耀蔵が商人に賄賂を要求していたのは、私腹を肥やすためだけではなかった。江戸の治安を守るためには必要悪な金なのであった。それは、北町奉行の遠山景元にも同様のことがいえた。
夜五つ半を過ぎた暗闇の北町奉行所の裏玄関には、影の者が出入りしていた。
鳥居耀蔵が新たな別動隊として、眼をつけたのが、赤田左膳率いる旗本奴であった。与力同心が手をこまねいている悪所の取り締まりをさせれば、奉行所としては一挙両得である。赤田左膳に八丈の島送りの裁定を下し、恐怖を植え付けてから、影の手下になって働くかを迫った。
鳥居耀蔵は赤田左膳に問いかけた。陰謀術策を謀る時には、優し気な顔を見せる。
「お主たちも辛いのじゃろう、何しろ同じ旗本といっても家督を継げぬものは生涯厄介者だからのう。武士の身分制度は差別が激しすぎると、儂も思っておる。腐る気持ちもわからぬでもない。だが、世の中はどうひっくり返るかわからぬぞ、北町の遠山などはのう、妾腹の次男坊で、元は500石の旗本じゃ、それが、今では北町奉行になっておる、八代将軍徳川吉宗公は四男からだぞ、」
赤田左膳はどうにでもなれ、という、自棄な気持ちで対座していた。
「赤田左膳、八丈島送りが良いか、儂の別動隊として働いてもらうか、どっちを選ぶのだ、返事をせい、」
「はっ、わたくしは無頼者で、何もできませぬ、わたくしには傾奇者が似合っております、、、お奉行様のお役に立つことなど到底できませぬ、八丈送りなどと言わず、いっそこの首を刎ねていただきたい」
居直った左膳であったが、鳥居耀蔵はその度胸が気に入った。
「うむっ、よい度胸だ。それでよい、それでよいぞ。ではそなたの首、この鳥居耀蔵が預かった。もう問答無用じゃ、今後も、旗本奴をやれ、今までどおり、江戸の町で大暴れしてくれ。ただしだ、、与力や同心が手が出ぬ、悪所、つまり、岡場所、出会い茶屋、賭博、矢場、まあ、博徒ややくざが絡む、いかがわしい悪所だ。そこを見廻り、奢侈贅沢を厳しく取り締まれ、よいな、、」
こうして、赤田左膳率いる愚連隊の旗本奴は鳥居耀蔵お墨付きの影の別動隊となったのである。「名は、『天保赤鳥党』と名乗れ、どんどん、暴れろ!、構わぬ構わぬ、はっはっはっ」
赤田左膳には俄かに信じられぬ話であったが、50両の軍資金もでるという、渡りに船の悪い話ではなかった。泰平を謳歌していたのは町民で、旗本御家人の下級幕臣はみな困窮していて、蔵前の札差(米屋)から、借金をしていない家はないといわれたほどの金欠病に罹っていていた。赤田家も同様に借金漬けで、家計に窮していて、居候の左膳は心苦しい思いをしていた。
そんな計算も働き、鳥居耀蔵の裏の別動隊として、与力同心が逃げ腰の悪の枢軸のどぶ攫いを引き受けたのである。赤田左膳率いる、『天保赤鳥党』にはしがらみがなかった。悪の巣に土足で入り込めた。遠慮は無用だった。
取り締まりだが、殴り込みなのか区別のつかぬ、めちゃくちゃな天保赤鳥党の悪所見廻りが始まった。天保赤鳥党は鳥居耀蔵の術中に嵌まっていて、ずぶずぶと泥沼に足を突っ込んでいった。もうその足は抜けそうにはなかった。
ふっふっふっ、人は使いようだ、操られる奴が悪いのだ、鳥居耀蔵はにんまり笑った。赤田右膳は表、左膳は裏、兄弟が鳥居耀蔵の配下になって、天保の改革の片棒を担ぐことになったのである。表裏、右左、上下、黒白、こいつらが一緒になったんじゃ、面白くもねえな、、、
(つづく)
作:朽木一空
※下記バナーをクリックすると、このブログのランキングが分かりますよ。
またこのブログ記事が面白いと感じた方も、是非クリックお願い致します。
にほんブログ村