「空気」
「原子炉の安全の公式かつ全面的責任」(「原子力安全の論理」)を負うはずの東京電力が、なぜ、海水注入を中断しようとしたのか、今日の朝刊を見ると、納得できます。 もっとも、記事自体は、相変わらず、政府が悪い、という風に書かれたものでしたが。 毎日新聞5月27日(金)朝刊によると、武藤栄・東電副社長は、「海水注入に向けて努力していたが、官邸の中の(首相の了解が得られていないという)空気が伝えられたので中断を決めた。」、といったとのことです。 つまり、東電経営陣は、「空気」を読むことによって、日本全体を危機に陥れるかもしれないという判断をした、ということです。 しかし、「空気」によって、このような狂気の判断をすることも、日本では、珍しいことではないのでしょう。 3月12日の段階では、東電経営陣は、会社存続に対する強い不安があったはずで、それに影響を及ぼすであろう首相の意向には、異常なほど注目していたと思います。 「心がない」といわれ、そのような東電経営陣の不安には感度の鈍い首相のもとで、東電経営陣の方は、首相の意向に反することはできない、という気持ちに強く支配されていたであろう、ということです。 それは、事故を収束させて、社会全体の不利益・危険を最小限のものにする、という、本来負うべき責任に対する気持ちよりも強いものであったであろうということは、日本全体の利益よりも、組織の利益を優先させてきたという、日本人が過去に犯してきた、数々の失敗の実例からしても、容易に想像できることです。 しかし、それは、原子炉設置者として、絶対に許されないことなのです。 こういったことは、よくいわれてきたことなのですが、目の当たりにすると、あらためて、日本人の危機に対する対応力に不安を持ちます。 そもそも、原子炉を安定化させる法律上の責任は、原子炉設置者である東電にあるのであって、素人の首相が何を言ったかなどは、政治家どうしの揚げ足取りの話でしかないのですが、それが、原子炉安定化のために、さも、重要な問題であるかのように報道されること自体が間違っています。 今回の事故に関する報道に関しては、とにかく、前提となる法律上の制度や責任を無視して、経済的利害や政治的思惑に引っ張られすぎた記事が多くて、うんざりします。 福島第一原子力発電所の所長は、当然、首相の発言は無視しています。 そして、東電経営陣は、明らかに、社会全体の安全を最優先にする判断はできなかった。