カテゴリ:Short stores
満員の電車に揺られながら、つり革につかまった手の後ろから目の前のシートに座っている君を見ていた。
君はいつもこの時間にこの車両に乗っている。 そしてこの辺りのシートに座って、きちん両足を綺麗に揃えて、その膝の上にバッグを載せて、うつむき加減に目を伏せている。 毎朝君を見る。 必ず君はそこにいる。 そして僕もここにいる。 それだけの事だけど。 もう1年以上もこうして君を確認してきた。 君は僕に気がついているのだろうか。 君は僕を知らないだろう。 僕が君をいつも見ていることなど、まるで知りもしないで、君は今日も僕の降りる駅の一つ手前の駅で降りていく。 君は僕の横を通り過ぎていく。 君は微かにシトラスの香りがする。 そしてその香りと共に僕に切なさを残して行くことも君は知らないで。 僕のすぐ横を過ぎていく君と僕の間に距離などないのに、君を何一つ知ることのない僕がいる。 君が去った後の車内はまるで光が消えたみたいに僕には見える。 そして僕は今日もいつもの駅で降りて、会社に行って、仕事をして、家に帰る。 そしてまた朝が来て君がそこにいる。 仕事の帰りに友達の哲生と会った。 哲生は結婚したばかりだった。 同じ職場の子と。 「大体毎日会うし、性格もわかるだろう。一緒に仕事してればさ。俺の悪いところも、何でも知ってるから、結婚してもあまり変わらないけどね。でもそれでいいのかなって思ってさ。お前はどうなんだよ。誰かいるのか?」 何て言えばいいだろう。 君を好きな人と言えるのだろうかと思う。 でも確かに今の僕の心は君が中心だった。 「電車で毎朝見る子がいるんだけど、でもだからって何がどうなる訳じゃないけど、ただ凄く気になる。初めて見たときから、ずっと。目立たない子だし、ごく普通のOLって感じだけど、ただそこにいるだけでほっとするんだ。今日もいるなって。ひっそりとそこにいて、うつむき加減に本を読んだりして、髪を耳にかけたり、サラサラした髪をしていて、誰にも迷惑をかけないで生きてるみたいな感じの子だよ」 「ふ~ん、話しかけてみればいいじゃないか。思い切って」 「何て言うんだよ。大体混んでる電車なんだぜ。無理だよ。降りる駅も違うし。朝はみんな急いでいるしさ、そんな事」 「俺は別にいいけどさ。お前はずっとそのままでいいんだな」 「わからないよ。考えてもいなかったし」 「恋するだけじゃ何も進まないんだぜ。子供じゃないんだから、もっと前向きに考えてみろよ。世の中にはそういうことがきっかけで結婚する奴だっているんだぜ」 「別に結婚のことなんて考えてないよ。そこまで」 「わかったよ。ところでさ・・・」 哲生は結婚してすっかり現実的になっていた。 まるで説教されてるみたいな感じだった。 みんな変わっていくんだ。 現実というものに飲み込まれるみたいに。 君がもし結婚していたとしても、君が誰かと付き合っていても、君が毎朝僕の前にいる限り、僕は僕の気持ちを変えることは出来ない気がする。 その時僕は満員の電車の中で君だけと向き合っている。 他の誰もそこにいないに等しい。 でも君が何も感じていなければ、それもただ空しい絵空事にすぎないけれど。 君は僕を知っている? 僕に気がついているの? 一度くらい僕を見てもいいのに。 でも君のそのひっそりとした朝の時間を僕が台無しにしたくないし、君の静かなその心の湖に石を投げるような事も僕はしたくない。 君はいつかそこから消えてしまうかもしれないけれど、君がそこにいる限り、それで僕はいい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005.10.22 01:36:16
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