テーマ:短編を作る(405)
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アンガラ川の水はシベリアの冬にもかかわらず凍ることなく流れて、川向こうには雪をかぶった宮殿のようなイルクーツク駅が横たわって見える。 この眺めに添えた「ケルン」という音楽が、僕も好きだ。 このセンシティヴで美しいピアノ曲を、キースはケルンのオペラハウスで1975年1月24日に即興演奏した。 彼はグレン・グールドのように演奏中、メロディーを口ずさんだり、歓喜のあまり声を張り上げたりする。 そしてしわくちゃな服を着てオペラハウの舞台に現れる。 創造の神からの贈り物を、キースという媒体の手により、ピアノ演奏という形におき換えるために。 そうして僕はその恩恵に授かり、イルクーツクのホテルの窓からの眺めを、より深遠で感慨深いものにできるという訳だ。 僕は19世紀の皇帝さながら、装飾が巧みに施された机で君にこの手紙を書いる。 僕の心はこの眺めと、この演奏とで高鳴り、君を想わずにいられない。君はどうしているのだろう。 君もケルンが好きで、いつも飽きるくらい聴いていたね。 だから飽きないの?って聞くと君は いつでも聴いていたいと、いつでも会っていたいは、きっと同じでしょう。 いつでも会っていたい、いつでも聴いていたい。 だからもう何処にも行かないで。 ずっとそばにいてほしい。 あなたがいない毎日は、朝が来ない南極の1日みたい。 一日中陽が昇らない、朝でも昼でも真っ暗な1日があるけれど、それと同じ。 そんな風に言ったのは、あの日がはじめてだったね。 それまで君は、僕が何をしても、何処へ行っていても、誰と会っていても、何も言わずに、何も聞かずに、ただ僕といるひと時を楽しんでいたけれど・・。 でも僕はまた君を残して、旅に出た。 僕が旅たつ前の日、君はいつものようにケルンをかけていた。 いつもと同じ、何も変わらない夜だった。 君も何も変わらない顔をして、明日は早いから、もう寝た方がいいわよ、なんて言いながら、 ボランティアで、施設の子供達に読んで聞かせるための、お話を考えていたね。 それは、いつもいじめられている子が、朝起きると、怪獣になっていて、いじめっ子をやっつける話だったと思うけれど、その怪獣はゴジラみたいなのがいいのか、それとも幼い子達に聞かせるから、ポケモンみたいなのがいいのかと、随分考え込んでいたね。 僕が明日から北極の1年の記録写真を撮りに行くことも忘れたみたいに。 あの夜、君は考えることを止めさえすれば、1年だって2年だって平気と言った。 あなたを自分の頭から追い出してしまえさえすれば。 そして暇な時間をつくらないように暮していけば。 いつも体が疲れきるまで働いて、直ぐに眠ってしまう生活をすれば。 早送りするみたいな生活をすればいいって。 でも1つだけどうしようもないことがあるって君は言ったね。 あなたが心変わりしてしまうことって。 それだけはわたしには何も出来ないって。 君だってするかもしれないじゃないかって聞くと君は、あなたはわたしをわかっていないってひどく怒ったね。 そして涙ぐんでベランダに出て行った。君は泣いていた。 あなたには私の気持ちなんてわからないって。 僕は君を抱いたけれど君はずっと泣き止まずに、僕を困らせたね。 君はいつもほんの僅かだけれど、塩素の匂いがしていた。 君は子供に水泳を教えていて、毎日のようにプールに入るから、その塩素の匂いが染みついていたんだね。 それを君に言うと君は、心までは漂白されないって言ったっけ。 あれから1年が過ぎて、僕は北極の長い1年を撮り終えて、今、イルクーツクのホテルでゆっくりすごしている。もう少ししたら、少し西の方へ行ってみようかと思ってる。ウクライナあたりに。 れい、君は後悔していない?僕とこうなったことを。 君は本当はもっと、いつもずっと一緒にいられる人が良かったんじゃないかと思って。 これから一体何日君といられるのかって考えても、そんなに多くの日々を君と過ごせないかもしれないなって思うんだ。 僕は地の果てみたいな場所にどうしても行かなければいられない。僕が撮るのはそんな場所ばかりだから。 でもそんなことを言うとまた君が泣くといけないから、来年は帰国して、日本を回ってみようかと思っている。知らない場所も行ってみたい所もあるから。 それなら君とも一緒にいられるし。 だけど気まぐれな僕のことだから、急に南極に行くなんて言いだすかもしれないね。 約束はできないけれど、そのつもりではいるから。 だからあまり期待しないで待っていて欲しい。 喜田川誠より お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.04.20 23:48:09
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