カテゴリ:独り言
電車を乗り継いで一時間とちょっと、黒い春物のワンピースを着て、真珠のネックレスをして、たどり着いたのは、埼玉県の吉川という駅だった。 東口のタクシー乗り場からタクシーに乗った。 越谷市斎場、わかりますか? と聞くと、そのタクシーのおじさんは わかるよ と訛った口調で言った。 そのおじさんはとてもゆっくり話す人で、声が優しかった。 つい最近まではこの駅の近くに斎場があったんだけど、随分遠くに新しいのを建てたんだよね。 結構かかるよ、20分くらい。タクシーでも。 わたしは見慣れない風景をその旧式のタクシーの窓から眺めていた。 ずいぶん日が延て、もう五時半になろうとしているのに、夕暮れ時はまだ始まったばかりだった。 ひと月前に会ったときには、まだ話も出来たし、確かに痛そうにしてはいたけれど、それをなんとか、表情に表さずにいられるほどには元気だった。 わたし、いかにも病人ですって、見えない? いつも控えめな人で、物腰も女らしい人だった。 今、日本で使える抗がん剤で、一番強いものを使っていたけれど、それも効かなくなってしまって、手の施しようが無いと見放されて、とりあえず自宅に帰って来ていた。 明日からは、治療を目的としない、はっきり言えば、人生の最後を迎えるための、病院的な場所へ入ることになっていた。 なのに、ちゃんとお化粧をして、身綺麗にして、いつもと変わりないようにしている姿が健気だった。 叔父と知り合って、お互い遅すぎる春だったけれど、優しさを絵に描いたような叔父と、その人はとても似合いだった。 お互いにおっとりしていて、二人でいつも微笑んでいる姿が、とてもほのぼのとしていた。 なのに何故あっという間に二人を引き離してしまうのだろう。 何故、二人がいっしょになったのが遅かった分、長く生きさせてあげないのだろう。 そんなことを考えていると どっちの方から来たの? とおじさんが聞く。 東京の〇〇の方から来たの。 そんじゃ、こんなことろめずらしいなぁ。 どのくらいかかった、時間。 一時間とちょっとで着いたけど。 電車混んでただろうねぇ。 ええ、とても。 ラッシュだものなぁ。 何故かこのおじさんと話していると、張裂けそうな気持ちが静まっていった。 不思議なおじさんだった。 誰が亡くなったの。 叔母さん。 なんで? 癌で。 癌かぁ。 ひと月前に会ってから、あっという間に逝ってしまったんです。 子供がいない夫婦で、でもとても仲が良くて、二人っきりだし、女の人は強いから、全部叔父は叔母に話しをしていて、「もう直ぐ死ぬのね、わたし」なんて平気で言っていたんです。 女の人は強いねぇ。 わたしもねぇ、妻を亡くしたんだけどね、自分が病気になってしまって、しばらく何も出来なかったんだなぁ。 くも膜下出血で、ある日突然、倒れてそれっきりだった。 あの時は辛かったね、やっぱり。 叔父は叔母が亡くなってしまうことを知っていたから、心の準備が出来ていた。 叔母と二人で生前、葬儀の話までしていた。 もうすぐだよ。 ほら、あそこに見えるでしょう。 川の近くに。 何にもないところに、平たい建物が何個か建っているのが見えた。 叔母の顔を見るまでは、心はざわめいていたけれど、その死顔は、ほっとした表情をしていて綺麗だった。 それを見て、ああ、良かったと思えた。 叔父は悲しいのだろうけれど、ごく普通にしていた。 お清めの席でとなりに座る叔父に 叔父さん大丈夫? と聞くと できるだけのことはしたからね と自分自身を納得させるように言った。 わたしは駅まで親戚に送ってもらうと、また電車を乗り継いで帰っていった。 どこか全てが夢の中のような一日だった。 あのタクシーのおじさんは今ごろどこを走るのだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.05.24 15:44:42
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