テーマ:ショートショート。(573)
カテゴリ:Short stores
いつも仕事で顔を合わせているのに、一度も話したことがない。 特に話をしなければならない事情もないし、話しかけられないのに話しかける必要もなかった。 でもとても不自然だった。 何故彼とだけ打ち解けないのか、何故彼はわたしにだけ話しをしないのかが。 一番考えられる理由として、わたしをきっと嫌いなのではないか、それが正論ではないかと思って いた。 だからなるべく彼の視界に入らないように、なるべく彼に近づかないようにしていた。 彼もわたしを避けているようだったし。 会社の飲み会があっても、なるべく彼から一番離れた席につく。 社員旅行があっても、近寄らない。 どこかですれ違っても挨拶もしない。 それは徹底していた。 お互いに。 そんな状態が続いて、二年目の冬が訪れ、冷たい雨が帰り際に降り始めた日のことだった。 その日に限って、わたしと彼だけが、残業を余儀なくされた。 同じオフィスに二人だけで残っていても、それでも口をきかなかった。 わたしは仕事が片付くと黙って帰り支度をして、挨拶もしないで、オフィスを出た。 彼もそろそろ仕事が終わり、帰り支度を始めようとしているところだった。 外は雨が降っていてとても寒くて、吐く息は白かった。 わたしのバックにたまたま折りたたみ式の傘が入っていたので、それを差すと駅に向かった。 100mほど歩いて、横断歩道で信号待ちをしていると、彼が雨に濡れて少し離れたところに立っ ているのが見えた。 彼はコートの襟をたてて、両手をポケットに突っ込んで立っていた。 それを見かねて、彼に傘を差し出すと、彼は世にも意外な顔をしてわたしを見ると、信号を無視し て行ってしまった。 その時もしかしたらずっとわたしは本当は彼を気にしていたのではないかと思った。 それはほとんど彼のことを好きということに等しい気がした。 駅に向かって走り去って行く彼の後姿を見て、わたしは確信に近いものを感じずにいられなかっ た。 どうして今まで気がつかなかったのか、わたしは帰りの混んだ電車に揺られ考えていた。 次の日彼はいつものように相変わらずだった。 だから私もなにもなかったように振舞っていた。 それは大体予測できたことだったけれど、でも心のどこかで、彼が話かけてくることを期待してい たのかもしれない。 でも彼はまるでわたしの方など見ることもなかった。 少し悲しい気持ちで昼休みにお昼ご飯を買いに外に出たとき、彼とばったり道端で出くわした。 彼は困ったような顔をして、通り過ぎて行った。 その時にもうこの職場にいられないと思った。 仕事に魅力もなかったし、そろそろ何かを始めたいと言う気持ちにもなっていた。 わたしにはある計画があって、専門学校に行こうと秘かに決めていた。 お金もある程度たまったし、そろそろそれを実現するために動くいい時期だと思った。 そうして春が来るとわたしは退社した。 彼はわたしの送別会に来なかった。 親戚の人が亡くなってそのお通夜に出ると言う事を耳にしたけれど、本当だろうか、と思わずにい られなかった。 ただ出席したくないだけだとしたら、随分ひどい人だと思った。 そこまで嫌わなくてもいいのにと。 荷物を整理して、仕事が最後の日、きれいさっぱりなにも無くなったわたしの机の上に、彼が近く を通りかかる時に、白い四つにたたんだ紙を何気なくぱっと置いた。 初めわたしはゴミでも置いたのかと思い、なんて最後までひどいひとなのだろうと、泣きそうにな った。 けれどよく見るとそれは手紙のようだった。 トイレに行ってそっと開けてみると、そこには、 携帯の番号と、彼の名前が記してあった。 そして彼はいつものように、何事もなかったかのように、仕事を続けていた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.08.04 00:17:39
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