叔母の「死」に思う叔母の「死」に思う叔母が97歳で亡くなった。 お元気な頃は、とてもしっかりした頭の良いおばさんだった。 10年ほど前に骨折して入院したのを機に、一気に老化が始まった。 「寝たきりになるとボケる」とはよく聞くが、 叔母もそのような経過をたどったように思う。 在宅での介護が家族の事情もあってままならず、 特養老人ホームに入所し、体調に応じて入退院を繰り返していた。 時々私がホームなどに顔を見に行くと、 最初の頃はすぐに涙を流すので困ってしまったものだ。 不自由になり、日常生活のすべてに介助が必要になった我が身が、 とても気丈で「人のお世話をしても世話にはなりたくない」というような人だっただけに、 悲しく情けなかったのだろうと思う。 子ども達も遠く離れている人が多く、 さほど頻繁に会えないという淋しさもあったのかもしれない。 私の母などは、「すぐに泣くからお見舞いに行くのも辛い」などと言っていた。 私は、わざわざ叔母に会いに行っていたわけではなく、 別の用事でホームを訪問した時に顔を見せる程度だったが、 涙を流しながらでも喜んでいるのがよくわかったし、 何より身内と言っても叔母なので、心理的に楽だったのだと思う。 それでも、行くたびに体力も気持ちも認知力も衰えていくのがよくわかり、 祖母を見送った時にもそうであったが、 「老いる」という姿を教えてもらったような気がする。 数年前からは、いつもウトウトしているような状態になり、 声をかけてもなかなか目をあけてくれなくなった。 それでもせっかく来たのだからと、耳元で 「おばさーん、○○だよ。わかるかい?」などと呼びかけると、 うっすらと目を開けたり、時には口をモグモグさせて声を出そうとしてくれた。 「聴覚」は最期まで機能していることが多いと聞いていたので、 できるだけ声をかけるようにしていたのだ。 一度、母と一緒に見舞いに行ったとき、 私が耳元で声をかけてもあまり反応がなく、 母は「だめだね。もう何もわからないんだろう」と言った。 その時「反応できなくても聞こえているのかもしれないから」と言うと、 母はそんなことは信じられないという顔をしていた。 母に言わせると 「こんなになってまで生きていたくない」ということになるのだが、 いくら眠っているように見えても、 枕元では決して言わないように注意したものだ。 先日、交通事故の障害で20年も言葉のなかった女性が、 突然話し始めたというニュースを聞いた時、私は叔母のことを思い出した。 叔母もきっと、反応できなくても聞こえているのではないかと。 そんなニュースから間もなく、 叔母の容態が急変して亡くなったという知らせを受けた。 病院から自宅に戻った叔母のお悔やみに行った時、 集まっていた子や孫達の中に、本州に住んでいるいとこがいた。 容態急変の知らせに飛んできて、幸いに最期の時に間に合ったのだと言う。 「きっと、私のために頑張っていてくれたんだと思う」と言っていた。 私も、きっとそうだろうなと思った。 集まった家族の、 「○○ちゃんがもうすぐ来るよ」 「頑張って元気になって!」という呼びかけが、 きっと叔母には聞こえていたのではないかと。 そのことが、叔母の最後の命の灯火を燃やし続けたのではないかと・・。 祖母が死んだ時もそうだった。 容態急変の病院からの知らせに私が駆けつけるのを待っていたかのように、 私が医師から説明を聞いている時に命が尽きた。 確かに私が病室に入った時は、荒い呼吸で酸素マスクをつけていた。 祖母の手を握り、 「おばあちゃん、さっきまで元気だったのにどうしたの?」と声をかけ、 祖母の手を握って医師の話を聞いていたのだ。 きっと祖母は、見た目には意識がなかったけれど、 私の声を聞いてホッとして、安心して逝ったのだと私は思っている。 きっと、叔母もそうだったのだと思う。 なかなか会えなくて案じていた子ども達への、 最後の「子ども孝行」をしていったのだろう。 叔母の顔は、本当に安らかだった。 意識がうつらうつらしていた頃の悲しげな表情ではなかったことが、 残された身内にとっては何よりもありがたいことだ。 安らかな叔母の顔を見つめながら、私は心から思った。 「おばさん、長い間本当にお疲れ様でした。そして、本当にありがとう」と。 (2005年02月21日/記) ジャンル別一覧
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