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西洋陶器を求めて - 内外の洋食器 -

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***** 伝記 *****

2020年08月20日
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カテゴリ:***** 伝記 *****
ネットで誹謗中傷被害が問題視されています。
しかし、この誹謗中傷被害は今に始まったことではありません。

歴史の中にありながら、今もまだ続く日本の誹謗中傷文化の代名詞。
その忌むべき代表は、私は「忠臣蔵」だと思っています。

皆さんと、日本の文化に潜む、誹謗中傷の怖さを確認しましょう。
忠臣蔵の悪役、吉良家の家臣や親族に起きたことから。


【斎藤清左衛門】

討ち入り時、中小姓6両と下っ端の家臣だった斎藤清左衛門。
入り口近くの大広間で寝ていたため、真っ先に赤穂の浪士と遭遇しました。
状況も理解できないまま戦いますが、あえなく切り殺されます。

写真は、愛知県西尾市吉良町の祥雲山 花岳寺にある清左衛門の墓。
「仮名手本忠臣蔵」で彼は悪役に仕立て上げられ、酷い誹謗中傷被害に遭いました。

その名を隠すためか、他者によるものか、
墓石にあった彼の法名は削り落とされています。





【鳥居理右衛門】

宝蔵院流の槍術に優れた理右衛門も、討ち入りにあった時は60歳と当時では高齢。
それでも吉良義周を守って戦い、浪士たちをてこずらせます。

いかに槍術の達人とはいえ、多勢に無勢。
完全武装の若者達に対して、防具もなく孤軍奮闘する高齢者。

最後は名ばかりの一騎打ちを堀部安兵衛に挑まれます。
しかし鎖帷子で武装した相手に槍は通りません。

疲れ切ったところを、理右衛門は頭を真っ二つに割られて惨殺されました。
忠義を尽くした彼の最期は、武装した若者達による集団リンチ死でした。

西尾市吉良町の西福寺に、鳥居理右衛門の墓がありました。
墓さえ造られなかった彼を憐れみ、西福寺の住職が密かに墓を建てたそうです。

世間の目を逃れるため、この墓の存在は寺の記録にも残されませんでした。





【吉良義周】

吉良上野介の養子だった義周は、当時18歳。
討ち入り時、周囲を囲まれ、背後から背中を切られます。

その深い一刀で彼はあばら骨が折れ、気を失いました。
ただその時、上野介が発見されたため、彼は捨て置かれ、九死に一生を得ます。
しかし、彼の悲劇はその後に始まりました。

重傷を負った義周は、討ち入り後に幕府により処罰されました。
被害者のはずの彼の罪状は、「義父を守れなかった罪」。

処罰は、流刑および幽閉。
死罪に次ぐ重い処罰でした。

諏訪へ流された義周は、衣服の洗濯や髪や髭を剃ることも許されませんでした。
親族も誹謗中傷に遭い、1年後に実父が、そして実の祖母も亡くなりました。
しかし葬儀にも参列は許されませんでした。

劣悪な環境下、義周は体調を崩し、わずか3年後、21歳の若さで他界します。
ところが義周は罪人ですから、遺体の検視が必要。

検視役が到着するまで、2週間、彼の遺体は塩漬けで保管されました。
検視までに遺体は腐敗し、立ち込める腐臭を香を焚いて防ごうとしたと伝わります。

西尾市吉良町の片岡山 華蔵寺に、吉良義周の墓があります。
墓石に大きく入った斜めのヒビが、彼の無念さを伝える様です。

養子となったばかりに、若すぎる命を落とした義周。
重傷の被害者のはずが、殺人集団から父の命を守れなかった罪人に。
その罪は、まさに誹謗中傷が生み出したものでした。





忠臣蔵は、吉良家の家臣達への誹謗中傷の物語。
そしてその誹謗中傷は、映画やドラマで令和になっても続きます。

吉良の家臣に罪はなく、君主を守ろうとした被害者にすぎません。
この吉良町に住むその子孫の方々は、今なお誹謗中傷被害に耐えています。

忠臣蔵ばかりが悪いとは申しません。
ただ、情報を扱う「娯楽」は、その陰で涙する人がいる可能性を忘れてはなりません。

特に日本人に根差した誹謗中傷の文化は、根深いものがあります。
忠臣蔵の物語が如何に酷い被害者への誹謗中傷か、気づかない人も多いでしょう。

情報を扱う点では、ブログも同じ。
私も反省を重ねつつ、ブログを記したいと思います。


【愛知県西尾市吉良町 ふるさと納税】







最終更新日  2020年08月22日 11時13分20秒
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2020年08月13日
カテゴリ:***** 伝記 *****
この菊花紋の付いた扉を、ご覧になったことはあるでしょうか?




寺院で稀にある、天皇家由来の菊花紋付きの扉がある門。
これを勅使(ちょくし)門と呼びます。

勅使とは、天皇が出す使者のこと。
勅使門とは、その勅使のみが天皇の指示を伝える際に通ることを許された門。

勅使門がある寺院は稀で、京都などの一部の有名寺院でしか見ることはできません。
その門が、愛知県東郷町の祐福寺にあります。




愛知県でも主要とは呼べない町に、勅使門があるのは意外です。
この門は室町・戦国時代(1528年)に、後奈良天皇の勅願寺として造られました。


後奈良天皇は、慈悲深い天皇でした。
戦国の下剋上の時代を嘆き、民を思いやりました。

1540年に、国内に疫病が流行りました。
その際に天皇は、疾病終息を祈り「般若心経」の奥書を書いています。
その中には次のようにあります。

「このたびの大病で大変な数の人々が亡くなってしまった。
人々の父母であろうとしても自分の徳ではそれができない。
大いに心が痛む。密かに金字で般若心経を写した。
(略)これが人々に幾ばくかでも疫病の妙薬になってくれればと切に願っている。」

2017年の誕生日前の記者会見で、令和天皇(徳仁天皇)は、この書に言及しました。
そして、後奈良天皇を国民に寄り添う模範のひとりとして挙げました。

戦国の世に、疫病に。
不運な時代を過ごした天皇だからこそ、慈悲深くもなられたのかもしれません。

不幸な経験は、人をやさしくするものなのでしょう。


【般若心経】







最終更新日  2020年08月13日 14時12分22秒
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2020年02月17日
カテゴリ:***** 伝記 *****
新型コロナウィルスへの対策が佳境となっています。
今日はウィルス関連の話題をしましょう。

サディ・カルノーは19世紀初頭のフランスの軍人であり、物理学者でした。
1824年、カルノーは熱力学の歴史に残る画期的な論文を発表しました。
しかしその論文の重要性は学会で認知されませんでした。

間もなく1830年、フランス7月革命が勃発。
カルノーも研究を中断しました。

革命後にカルノーは研究を再開しましたが、1832年、彼はコレラに感染しました。
そして、わずか2ヶ月後、彼は36歳で他界しました。

彼の研究の記録は、コレラの2次感染を防ぐため、大半が焼却されました。
そして、わずかに彼の研究ノートが残されました。

彼の業績は失われかけましたが、19世紀後半に再評価されます。
熱と仕事を関連付ける彼の研究成果は、コレラの流行さえも消し去れませんでした。

その後、彼の名前は熱機関「カルノーサイクル」に残されました。
熱力学のパラメータ「エントロピー」の記号”S”は、彼の名前サディにちなみます。
彼の業績がなければ、自動車のエンジンは生まれませんでした。

今日の人類の繁栄は、パンデミックへの勝利の歴史であることを忘れてはなりません。

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最終更新日  2020年02月17日 20時41分50秒
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2019年04月12日
テーマ:天気の話!(1585)
カテゴリ:***** 伝記 *****
雷雨の中で、空に凧を揚げる。
雷が電気と証明した、ベンジャミン・フランクリンの有名な実験です。

しかし今日では、フランクリンはこの凧揚げをしていないと言われています。
それは実際に凧揚げしようとすると、様々な矛盾がわかるから。

彼はこの実験の手順を、次の様に説明しています。

 ・凧は杉の角材と絹布で作る
 ・凧の先端に針金を付け、麻ひもを垂らす
 ・麻ひもの下端に鍵をぶら下げる
 ・麻ひもに短い絹ひもを付けて絶縁し、感電を防止する
 ・絹ひもが濡れると感電するので、凧は部屋の窓から揚げた

公開実験が当たり前の時代、彼はなぜこの実験を公開しなかったのでしょう。
なぜ実験日と場所が示されず、後に告げられた実験日が4ヶ月も前だったのでしょう。

その答えは、この実験が実際には再現できないことと関係があると思われます。
追試験をした人は、次の様々な矛盾に気づきました。

 ・当時の家の鍵は多すぎて、凧で揚げられなかった。
 ・フランクリンの絵もそうだが、麻ひもに触れて感電してしまう。
 ・部屋から凧を揚げると、窓枠にひもが触れるか、絹ひもが雨に濡れて感電してしまう。

このフランクリンの実験は、実際にはできません。

フランクリンは凧の実験を提案しました。
しかし彼が実験したと主張する日は、1752年6月。
実際には、1752年5月に、フランスのトマ・ダリバードが凧揚げの実験に成功しています。
実験日を追及されたフランクリンは、嘘の実験日さえ間違ったのでしょう。

自分が考えた実験の成果を取られてしまう。
その思いが、焦った彼に嘘の実験を主張させたのでしょう。

今日では、フランクリンの凧揚げの実験の絵が、教科書などで掲載されることも減りました。
この絵が忘れられれば、彼の黒歴史も消えていきます。

偉大なアメリカ建国の父、フランクリン。
誰にでもあやまちはあるものなのです。

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最終更新日  2019年04月12日 20時33分01秒
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2019年03月14日
カテゴリ:***** 伝記 *****
松尾芭蕉が忍者という説。
「キイロマン☆彡」さんから、その問いかけを戴きました。

そこで、松尾芭蕉忍者説の根拠を整理してみましょう。

1)芭蕉は伊賀上野に生まれ、29歳まで伊賀ですごした。

2)芭蕉は「伊賀無足人」だった。
  無足人とは、伊賀藤堂藩が、士分(武士)と認めた者。
  ただし、給料はない。
  伊賀無足人には、忍者もいた。

3)旅の費用をどうやって得たかが不明。
  繰り返した旅の通行手形も得にくかったはず。

4)江戸では土木工事の監督で生計を立てたが、土木技術はどこで学んだんのか。

5)楽しみにしていた松島は一泊しかせず、句も一句のみ。
  伊達政宗の隠し砦の瑞巌寺を何度も見に行った。

6)45歳で一日数十キロを歩く健脚。

これらが忍者説の根拠です。
たしかに怪しくはありますが、忍者と特定するには弱いですね。
もっとも忍者なら、この程度では馬脚を現さないでしょう。

皆さんは、どう思いますか?

「芭蕉像」


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最終更新日  2019年03月14日 20時10分26秒
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2018年08月06日
カテゴリ:***** 伝記 *****
不死身のスタントマン、ボビー・リーチ。
彼は樽の中に入り、ナイアガラの滝を飛び降りても生還しました。
1911年のことでした。

スタントマンとして名声を得たボビー。
しかし、ニュージーランドで、彼の弱点が発覚しました。

オークランドの歩道で、落ちていたオレンジの皮を踏んで転び、あっけなく他界したのです。
転倒時に受けた傷から脚が壊疽し、発症した合併症が原因でした。
1926年のことでした。

油断大敵。
皆さんも足元には注意しましょう。





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最終更新日  2018年08月06日 19時48分30秒
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2018年06月25日
カテゴリ:***** 伝記 *****
江戸時代の浮世絵師、歌川広景をご存知でしょうか。

歌川広景は、正体不明、謎に包まれた浮世絵師です。
活動期間は、わずか2年8ケ月しかありません。

広景は、「東海道五十三次」で有名な歌川広重の弟子と言われますが、それも定かではありません。
そして、その浮世絵はユニークで、笑いを誘うものばかり。

広景の浮世絵では、登場人物や動物はしばしば大騒ぎをしています。
ひっくりこけたり、大笑いしたり、大暴れしたり。

次の浮世絵「内藤志ん宿」でも、馬が暴れて大騒ぎ。
そして、この浮世絵は歌川広重の「名所江戸百景 四ツ谷内藤新宿」のパロディーでもあります。





広景の浮世絵には、パロディーや”パクリ”が多いのも特徴です。
その対象は、師匠の歌川広重や、有名な葛飾北斎。

次の浮世絵「筋違御門うち」は、葛飾北斎の「北斎漫画 十二編 天眼鏡」のパクリ。
天眼鏡を持つ男性や、それを覗く女性は、北斎の浮世絵の模写です。





広景が姿を隠した理由とされるのは、次の浮世絵。
コレラの流行、将軍家の跡継ぎ騒ぎの風刺とされる浮世絵「青物魚軍勢大合戦之図」。
この作品で幕府の怒りを買い、広景は姿を隠したと言われます。





謎の浮世絵師、歌川広景。
ユニークな才能を持ったその浮世絵師の正体は、今となってはわかりません。





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最終更新日  2018年06月25日 21時34分35秒
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2018年01月11日
カテゴリ:***** 伝記 *****
17世紀の科学者、ロバート・ボイル。
熱力学のボイルの法則に今も名を残す彼は、近代科学の祖とされます。

短期間、ガリレオ・ガリレイからも学び、科学の発展に貢献したボイル。
しかし、本質的には、彼は錬金術師でした。

まだ、錬金術と化学が分離できていなかった時代。
彼は、当時実現できなかった24の研究テーマを、将来の科学者へリストとして残しました。

「麻酔薬」、「飛行法」、「経度の測定法」など、そのリストの多くは後年実現されました。
そのなかで、まだ実現していないテーマもあります。
それは、「巨人化」に関するテーマです。

ボイルが、なぜ巨人化を求めたのかはわかりません。
ただ明らかなのは、巨人が実現せず良かったということです。





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最終更新日  2018年01月11日 20時36分38秒
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2017年11月05日
カテゴリ:***** 伝記 *****
「トム・ソーヤーの冒険」の著者、マーク・トウェイン。
彼は自らの死を予言しました。

彼は、こう述べました。
「私は彗星とともにやって来たので、来年の彗星とともに去ってゆく。
 そうでなければ、生涯最大の失望になるだろう。」

彼が生まれたのは、1835年11月30日。
それは、ハレー彗星が太陽の最も近づく近日点の2週間後でした。

そして彼が亡くなったのは、1910年4月21日。
それは予言通り、ハレー彗星の近日点の翌日でした。
死因は、心臓発作でした。

人の死には、心の働きが大きく影響するのでしょう。
死期をハレー彗星で連想したから、彼は彗星とともに他界したのでしょう。

生きる気持ちが強ければ、寿命はきっと延びることでしょう。
人生を楽しく思えるなら、きっと長く生きられるでしょう。

次のハレー彗星の接近は、2061年の夏のこと。
今から44年後のことです。

「とりあえず、次のハレー彗星を見るまで私は去らない。」
この目標、置いてみてはいかがでしょうか。





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最終更新日  2017年11月05日 21時44分33秒
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2017年11月01日
カテゴリ:***** 伝記 *****
キログラムの定義見直しが、目前に迫っています。

今まで質量は、国際キログラム原器で定義されていました。
しかし原器のわずかに汚れでも質量が変化するため、不安定な定義でした。
質量はプランク定数を通じた定義への変更が提案されていて、2018年に審議されます。

プランク定数の命名は、ドイツの物理学者マックス・プランクの名にちなんでいます。

1918年にノーベル物理学賞を受賞したプランク。
物理学者としての成功の陰で、晩年の私生活は不幸でした。

彼の不幸は、妻の結核での死に始まります。
2男2女の子供に恵まれましたが、双子の娘たちはいずれも出産後に亡くなりました。

しかし彼を本当に不幸にしたのは、2度の世界大戦でした。

第一次世界大戦が始まり、愛国心が高い彼はドイツの戦争を支援する「世界文明への宣言」に署名しました。
この結果、ドイツは研究者と毒ガス、大量破壊兵器を開発することになりました。

その彼の行為は、結果的に彼を苦しめました。
第一次世界大戦では、長男カールが西部戦線で戦死。
次男のエルヴィンも、フランス軍の捕虜になりました。

ナチス政権下でも、彼はドイツに残ることを選択しました。
その結果、彼はさらに不幸になります。

ベルリン空襲で、彼は家を失いました。
そして、1945年、生き残っていた息子エルヴィンは、ヒトラー暗殺計画加担の疑いで処刑されました。

2男2女の子供をすべて失い、「国賊の父」とまで呼ばれたプランク。
彼は生きる希望を失い、エルヴィン処刑の2年後に他界しました。

プランク定数にその名を残し、ノーベル賞も受賞した彼。
戦争さえなければ、彼はただ幸福な人生をすごせたかもしれません。

戦争さえなければ。
しかし、戦争とはそういうものなのです。





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最終更新日  2017年11月01日 21時55分41秒
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