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仕事が楽しくて仕方がない人を一人でも多く増やす

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入院生活

病院は自分のふるさとである岐阜県の下呂温泉病院に入院しました。

結局入院3ヶ月、リハビリ1ヶ月になりました。
その間の様々な体験や気づきがその後の人生を大きく左右しました。

入院した私は「インドネシアに復帰することはできない。駐在なかばにして帰国した自分は半端物。これで自分のサラリーマン人生も終わった」なんて
昭和かれすすき(知ってます?)状態。なんとも情けない状態でした。

毎日病室の窓からハトポッポにえさをあげながら、東京を引き払って田舎に戻ろうか、なんて弱気になっていました。

ある日、名古屋の中古自動車販売の社長さんが入院してきました。彼は会社の慰安旅行で下呂温泉に遊びにきていたのですが、宴会の最中に大量の喀血をして、意識不明の重体になりました。最初は緊急治療室で生死の境をさまよったのですが、復活しやがて私が寝ていた大部屋に入ってきました。

彼はとにかく明るく元気なのです。数日前まで生死の境をさまよったとはとても思えないほど元気で、いつも大部屋のみんなを笑わせてました。彼は「俺は本当に仕事が好きだ。みんなが待っているので早く退院して、また仕事を始めたい。ここ数年しゃにむに走ってきたので、いい休養になった」と言っていました。とにかく、彼の口からは愚痴や不満はひとことも聞いたことがありませんでした。

彼には奥さんがいました。奥さんは名古屋からきて、ずっと彼のそばにいました。大部屋のベッドの下のつめたい小さな床に身を縮めて奥さんは寝泊りしていました。その奥さんはもの静かな方で、彼をやさしく見守っていました。この奥さんからもひとことの愚痴や不満も聞きませんでした。

彼はみるみるうちに元気になって、10日間ほどで、退院していきました。退院時の顔はとても晴れやかで「お前も早く元気になれよ!」といって去っていきました。

世の中にはなんとカッコいい人たちが居るもんだ!と心底感動しました。
いつも元気な彼とその彼を支えるもの静かな奥さん。あのふたりきっと今でも多くの人々の生きる支えとなっていることでしょう。

一方でそれとは対照的な人が別の部屋に居ました。糖尿病で失明しかかった人でした。その人は夜と昼の生活が逆転した状態。夜になるとゴソゴソとおきだして、お菓子食べたりしてうるさいので、他の大部屋の人は皆彼のことを嫌っていたようでした。大部屋をたらいまわしされていました。周りの人は「きっと彼は病状が進み、両足を切断せねばならないだろう」といっていました。

この二人の振る舞いを見るうちに私は「自分が元気になるか、悪くなるかは、自分の思い次第なんだ。すべては自分の思いが決める。他の人を元気づける人が自分も元気になれる人なんだ」という確信を得ます。

入院中には死にも出会いました。横のベッドに寝ていたお祖父さんがある日一人部屋に移されていきました。しばらくして、家族の悲鳴が聞こえてきます。「おじいちゃん!おじいちゃん!」。その悲鳴を聞きながら、大部屋の人たちは固まっていました。

4ヶ月間の療養の間に息子が誕生しました。妻が生まれたばかりの赤ん坊を抱いて、駅のプラットホームに下りてきた姿は今もはっきりと目に焼きついています。

元気な妻の姿、そしてその腕の中には生まれたばかりの小さな命。

「ありがとう、よく生まれてくれた!」

病気になってふさいでいた私の心は、上の名古屋の社長さんや、生まれてきた息子、そのほか両親、妻や私を支援してくれる人たちのおかげで、復活していきます。

「病気はきっと何かを気づかせてくれるためのいい期間だった。また東京に戻ってやり直そう」そんなふうに思えるようになっていったのです。

東京に戻ってからも療養は続きました。そんな中でも素晴らしい人たちに会いました。子供のころ心臓手術をして輸血をした結果、C型肝炎になった人がいました。2重の病を抱えながらも彼はそれを受け入れ、ひとことの不満を口に出さず、泰然と生きていました。入院し、インターフェロンを打ちながら病院のベッドから事務所に通う弁護士さんも居ました。

そんな体験を経ながら、私は今までほとんど興味のなかった心の働きに興味を持ち出すようになりました。思いと現実との関係や成功原理といったことに非常に興味を惹かれるようになりました。そして産業カウンセラー養成講座を始めることになったのです。




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