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目の変化びと

目の変化びと

感覚のとつぜんの不可逆的な変化

「感覚のとつぜんの不可逆的な変化」とは、どういうことか?

たぶん、悩みの原因は何であれ、人から見たらたいしたことない悩みであっても、個人的に長期にわたって深く悩み、「こんなふうに生きてゆくのはもういやだ」と真剣に悩んでいるとき、奇跡的に宝くじに当たるような運が来たら、ある日ある時とつぜん、それは起こる。

そして、おどろきあきれることに、そのあと何か月間もかけて、別の世界(?)とでもいうようなところへ移動させられてゆく。

そのあと慣れのせいなのか、極端な恍惚感は薄れてゆくが、ありがたいことに、変化した感覚はもとへはもどらない。

それにひきかえ、身心から思考を抜こうと試みることで得られるものは可逆的であり、断続的な努力に支えられていて、何らかの関連はあるものの、別種の現象である。

「感覚のとつぜんの不可逆的な変化」をめざしたところで、それには極端な苦悩とか事故とかが、きっと深く絡んでいるらしいので、それへの方法と言われているものは、事故に会ったけど生きのびてうまくいってる人が、事故に会わずに事故に接近する方法を人にすすめているようなものだ。

「身心から思考を抜こうと試みる」といった方法は、蓄積されていって、「身心の可逆的変化」を起こす。それは、「感覚のとつぜんの不可逆的な変化」と根本的な関係はあるのだろうが、にもかかわらず別の現象だろう。

可逆的なので、方法を継続してゆく努力が必要で、努力は多かれ少なかれむくわれる。しかも終わりがないから、努力愛好家としては、とてもいいようにも思う。「身心の可逆的変化」にとっては、刻々の努力が刻々とむくわれている。

ただし、いっそう努力して「感覚のとつぜんの不可逆的な変化」へと大きくむくわれたいと望んでも、根本的には関係しているにせよ別の現象であってみれば、どうしようもない。

「感覚のとつぜんの不可逆的な変化」が起こるなら死んでもいいから事故に会いたいと願うのは、うまくはゆかない。事故に会ったからといって「感覚のとつぜんの不可逆的な変化」が起きる確率はかなり低いだろうし、事故でほんとうに死んでしまうかもしれない。しかも、運良く「感覚のとつぜんの不可逆的な変化」が起こったとしても、日常生活をそれに適応させるには、そのあと日々の暮らしをかなり整理してゆかなくてはならないだろう。

ということで、あちこち不満はあるにせよ、刻々の努力が刻々とむくわれる「身心の可逆的変化」はたいした現象である。まあ、これまた、日常生活をそれに適応させるには、かなり日々の暮らしを整理してゆかなくてはならないのは、どうやら同じみたいなのだけど。

感覚の変化の区別として、
「感覚のとつぜんの不可逆的な変化」は主として脳神経物理的変化であり、
「感覚の可逆的な変化」は主として心(身心の化学的変化?)の問題である。
共通しているのは身体である。


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