◆ 夜から夜へ夜から夜へ気づいたらコップに入った水の表面を見つめていた。 誰が? 気づいたらコップに入った水の表面を、誰か、見つめていた。 いったいここはどこなんだ? 見まわすと、どうやらファミリーレストラン、時刻は午後9時。 伝票を見ると、私は午後8時に店に入り、Aセットを注文している。テーブルに水だけなのは、すでに食べ終わり、片づけられたのだろう。なるほど、おなかは空いていない。 どうなっている? 店内にきわだっておかしなところは感じられない。客はまばらだ。 窓の外、通りの向こうに見える、あのホテルの606号室に私は泊まっている。それはわかっているのだけれど…いろんなことを思い出せない。レストランに入る直前、何をしていたか、思い出せない。店に入ってからも、Aセットを食べた記憶がない。 メニューを調べると、なるほど、私ならBでもCでもなく、Aセットにするだろう。メニューの表紙には24時間営業と書いてある。 私は自分が宿泊しているホテルの向かいにあるファミリーレストランに晩ごはんを食べに来たのだろう。これからホテルにもどって眠るのだろう。9時10分…眠るにはまだ早い? いったい私はふだん何時に眠るのだろう? きのうの私は何時に寝た? きのうの私? 私? どうして私はあのホテルに泊まっている? 仕事? 私の仕事って? いったい私は誰なんだ? 4人席にひとりですわっている。椅子にもテーブルにも、水の入ったコップのほか、何も置かれてはいない。服やズボンのポケットを調べるが、財布とハンカチしか出てこない。財布の中身はお金だけだ。どうして1枚もカードを持ってないんだろう?これでは何もわからない…ああそうか、ホテルの部屋にもどったら何かわかるだろう。 レストランを出て道を渡ってホテルへ向かう。 「ちょっと確認したいんですけど、私はいつからここに泊まってます?」 「わたしより古いですよ」 「え?」 「すみません。ここで働くようになって、まだ日が浅いのです。わたしの勤務初日には、お客さまはすでに滞在されておられました」 「そうなんですか…」 「向かいのレストランでお見かけしたこともあるんですよ。お連れの方と楽しそうにされていました」 「それはいつです?」 「去年の暮れです。ちょっとお待ちください…606号室ですね…お客さまがいつから滞在されているか、調べてみます」 フロント係はパソコンのキーボードを叩く。 年末にも、誰かといっしょにさっきのレストランにいたらしい。 誰と? 私の連れ? 私の知り合い? ああ…それどころか私は、私の家族さえ思い出せない。 「わかりました。去年の12月3日からです。もう、ひと月になりますね。むずかしいお仕事なんでしょうね」 1か月…いったい何をしてたんだろう? 1か月前…その前は何をしてたんだろう? 「どうかされました?」 「あ、いや、ほんとに。なかなかたいへんでね。まだしばらくお世話になるかもしれない」 「ありがとうございます。何かありましたら遠慮なさらずお申しつけくださいね」 部屋は清掃がゆきとどいている。 人の暮らしは感じられず、この部屋で1か月間、私が過ごしているだなんて信じられない。 クローゼットにはクリーニングされた服が2組、きれいに吊るされている。 物入れや机の引き出し、全部あけて調べてみたが、空っぽだ。机の上のメモ帳にも書きこみはない。洗面所もゴミ箱もきれいに片づけられている。 何ひとつ、「私」の証拠は残されていない。 ん?あれは? 部屋の隅にダイアル式の小さな金庫。 金庫に「私」の身元を証明する何かを入れているのか?だけど番号を知らな……ん?数字が浮かぶ…私はこの金庫の暗証番号を知っている。 右へまわす。 左へまわす。 右へまわす。 左へまわす。 ひらく。 金庫の中身は…カギ。コインロッカーのカギに見える。どこのコインロッカーだろう?駅だろうか?駅だとしたって最寄りの駅?それとも遠く?図書館やデパートにもコインロッカーは置いてある。 そうだ、フロントで尋ねてみよう。 「これ、コインロッカーのカギだと思うんですけど、どこのかわかります?見ただけでわかるはず、ないかもしれませんけど…」 「だって、それ…」 フロント係は私を見る。どうやら私がこのカギを知らないはずがないらしい。私の顔は少し赤くなっただろう。 「失礼しました。ほかの似たようなカギと区別がつかなくなってしまわれた…とか、されたのですね。はい、それはロープウェイのコインロッカーのカギです」 ロープウェイだって? 乗り場はどこですか、と質問しかけてやめる。フロント係のようすからして、そんなことを私が尋ねるのはおかしなことのようだ。 「どうなさいました?今は10時50分です。ロープウェイにお乗りになるのでしたら、最終は11時ですから、まだ間に合いますよ」 「そうですね。ありがとう」 ロープウェイのコインロッカー? こんな時刻にロープウェイ? いったいどこからどこへ? あと10分だって? いや、9分… ロープウェイの最終便、11時まであと9分。 まだ間に合う? ということは、ここから数分で行けるところにロープウェイ乗り場がある。ホテルの近くにロープウェイがある。どこ?そうだ、隣のコンビニで聞けばいい。 コンビニへ走る。⇒gd 「すみません、この近くにロープウェイ乗り場があると聞いたんですが」 「ありますよ、隣のホテルの屋上です」 「え? いや、ありがとう」 いったいどうなってる? ホテルの屋上にロープウェイ? 走ってホテルにもどる。 エレベーターのボタンを押す。 エレベーターがひらく。 エレベーターがしまる。 エレベーターのボタンを押す。 エレベーターのボタンが上昇する。 エレベーターがひらく。 10時55分。 目の前にロープウェイ。乗ろうとすると、切符を要求される。代金を払おうとするが、ここでは売っていないと言われる。乗れないのか? そうか、コインロッカーはどこだ? あった、向こう側だ、走れ! コインロッカーをあける。何もない、いや、何かある。あわてて黒い紙切れをつまみ出し、走る。黒い切符を渡してロープウェイに乗る。 10時58分。 ふぅ。 まあ、ほんとのぎりぎりというわけではない、うっ、乗ったとたん、ロープウェイは発車する。 かなりなスピードで上昇してゆく。見おろすとひろがっていた街明かりの群れもすぐに視界から消える。 私は座席にすわり、ロープウェイの箱の中を見る。広告も貼り紙もない。目を閉じると暗闇にひと粒の光点。目を閉じたまま目を凝らす。光点は左上方へと移動してゆく。 ああ、斜めに上昇するあの点は、ここだ。あの光の粒の中に私が…いる? いない? 目をいくら凝らしても「私」は見つかりはしない…光点を追う。 光点の移動してゆく先にあるはずの光、ロープウェイ発着場の光を閉じた目で探すが、見つかりはしない… 光の粒はふいにひろがり、ここになる。 目をあけると何事もないロープウェイの箱の中。静かだ。動いてるんだろうか? ん? 動いてるんだろうかって、動いてなかったら、止まってたら? 非常ボタンを探すが見つからない。目を閉じると暗闇にひと粒の光点。停止している。しばらく待っても、光の粒は動き出しはしない。 真夜中の、宙ぶらりんのロープウェイ。 目をひらく。腕時計は11時49分。いつのまにやらこんなに時間がたって…うわっ! ドアがひらく。人が立っている。促されてロープウェイから出る。 「お待ちしておりました」 「待ってた…」 「11時にお乗りになったと、下から連絡がありましたから」 「そうですか…」 「ムーンホテルへようこそ」 「そういえば、月が見えませんね」 「今夜はずいぶん曇っています」 ホテルの光の感じがなんだかおかしい。照明が薄暗く揺れている。揺らめく照明? うわっ! ホテルに入ると、あちこちにろうそくの光…窓枠…壁のへこみ…廊下の曲がり角の床の隅…短いろうそく…長いろうそく…さまざまな長さのろうそく… 壁のへこみはいろんなところにあって、膝の高さ、目の高さ、天井近く、ろうそくの炎が揺らめいている。 廊下の向こうから、ろうそくを山積みにした台車がやってきて止まる。燃え尽きたところや短くなったろうそくを新しいのと取りかえる。天井近くへは、短いはしごをかけてのぼり、取りかえる。 消えてしまったろうそくに火をつけ、燃え尽きたところには近くから火をもらった新しいろうそくを立てる。短くなったろうそくから新しいろうそくに火をうつし、取りかえる。 案内してくれている人が立ち止まり、腕時計を見る。 「12時からホテルのレストランで食事をしていただけます。いえ、お疲れでしたら、もちろんお休みになられてもかまいません。どうなされます?」 「食事ですか、夜中の12時に?」 「夜の12時と昼の12時にホテルの大広間で軽食を楽しんでいただけます」 「軽食? 大広間?」 「しっかりした料理は夕方6時から10時までとさせてもらっています。大広間と呼べるほど広くはないのですが、レストランというよりは広間という感じでして」 ろうそくを積んだ台車が通り過ぎる。燃え尽きていたところに新しいろうそくが置かれたせいか、いくぶん明るくなった気がする。 「朝食は?」 「ムーンホテルでは、朝に食事をされる方はほとんどいらっしゃらないもので。でも、声をかけてくだされば何かしら用意させてもらいます。 で、どうなされます?」 「え? ああ、夜食ですね。いただきます」 低い金属音が響く。腕時計を見ると、午前0時。 「では、ごゆっくり」 細長いテーブルがずいぶんたくさん並んでいる。そしてたくさんのろうそく。天井はずいぶん高い。テーブルの間を、ウエイターがゆっくりと運んでいく。さっきの人は、大広間と呼べるほど広くはないと言ってたけど、これなら「大広間」と呼べるだろう。食事する人はまばらだ。私は、誰もすわっていないテーブルのまん中あたりにすわり、ろうそくの炎を眺める。 軽食を金色の盆に載せたウエイターがやってくる。コーンスープ、パンとバター、トマトサラダ。飲み物は選べる。 そういえば、コンビニで買った食べもの飲みものは606号室に置きっぱなしだ。 午前0時18分。 低い金属音がもういちど鳴り響く。 いつのまにやら前の席に誰かすわっている。ろうそくの向こう、テーブルのちょうど反対側、グラスを見つめるその目に炎が揺れる。その人の見つめる水の表面で、ろうそくの炎がちらついている。 「いったいここはどこなの?」 女だった。 「失礼ですけど、もしかして何もおぼえていない、いや、ほとんど何も思い出せないのでは?」 「あなたいったい…何をおっしゃってるの?」 「それは…」 うつろな目に炎が揺れている。女が覗く私の目にも… 「ああ…そうね…そのとおりだわ…何もおぼえていない」 「でも、少しは思いだせることもあるでしょう?」 女は首をかしげる。 「わからないわ…ほんのすこしわたしに思い出せるとしたら、それは何かしら…」 「たぶん、名前も家族も思い出せない。だけど、何もかもすっかり忘れてるわけじゃない」 「そうね、思い出せないわね…ほんとに…だめだわ…誰なのかしら、わたし…でも、何もかも忘れてるわけじゃないって、あなた…わたし、何をおぼえているのかしら…」 女はグラスの水を口にふくむ。 「おぼえているのは…そうだな、たとえば泊まってる部屋の番号とか…どう?」 口にふくんだ水を飲みこむ。 「ああ…わかるわ、数字がはっきり浮かぶ…」 女の表情が静まる。白ワインかもしれない。 「きのう、何してたかは?」 |