目の変化びと

2006/08/23(水)08:14

クリシュナムルティ(引用)

クリシュナムルティ(引用)(351)

(生と出会う:p51/52:クリシュナムルティ:コスモス・ライブラリー)より引用(一部変作) 『思考は意識を支え、それに栄養を与える。意識の中身は思考の決して終わることのない運動であり、欲望、葛藤、恐怖、快楽の追求、苦痛、寂しさである。  思考を、低級な思考と高級な思考に分けることはできない。高次であれ低次であれ、それはなおも意識であり、いつも騒がしく、おしゃべりしているからである。  思考はどんな状況にあっても「全体」ではありえない。思考は「全体」について考察し、言語化にふけり、その経験にひたるかもしれない。しかし、思考は「全体」の美を、広大さを知覚できない。  それはなぜかというと、思考が経験と知識の不毛な子だからで、思考は決して「全体」ではありえない。思考はつねに限定されており、断片的なものである。思考が人間にもたらした心理的な問題を、思考は空しく解決しようと骨折り、そのためなおさらそれは解決しがたいものとなるのである。  思考が、自ら生み出した心理的な問題や心理的な葛藤を解決することの、思考自身のまったくの無能を理解するときにのみ、(思考抜きの)知覚が、(思考抜きの)洞察が可能になり、心理的な思考を終わらせることができるのである。』  ああ、でも、あなたの言われていることは、頭ではわからなくもないのですが、現実には不可能ですよ。  すると、あなたはこんなふうに答えるのでしょうね。 「なぜ不可能だと決めつけるのですか? あなたはこのことを真剣に試みたことがないのです。不可能だとか可能だとかの先入観を持たず、ただやってみるのです。」

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