迷い人をひろう
一直線の農道を車で走っていました。 見沼田んぼの中を突っ切る、日頃あまり車の走らない道で、刈り入れを待った稲の穂が風に吹かれている、それは気持ちのいい午後でした。 遠く前方に、農道を歩いているお年寄りの姿が見えました。 白髪に白いシャツ、グレーのスラックス、片手にビニール傘を持っています。微妙な位置を歩いているので、車が追い越す時に注意してゆっくり通り抜けて行きます。 (この道に慣れていないんだろうか) 近づいてすれ違うその時、誠に不思議なタイミングで目が合い、その方はにこっと笑って私に傘を振ったのでした。その何とも言えない笑顔。 (知り合い?いや初めて見る方) ゆっくり通り過ぎながら、シャッターのように彼の全体像を写し取った私の中に、即、何か違和感がありました。アクセルを踏みながら何だろうこれは・・・すぐにわかりました。 (あの人、室内用の赤いスリッパ履いてた) おそらく迷い人だろう。どうしよう。なるべく面倒なことには巻き込まれたくない。時間も迫っている。けれど・・・しばし迷います。そしてバックミラーで、遠ざかるその方を追います。飄々とした足取りで、まっすぐ歩き続けるその姿・・・直観が動きます。 (目があったな。笑ってたな。私に傘を振ったな) ・・・車をUターンさせました。 歩いているその方に横付けして話しかけます。 「おじいちゃん!こんにちは!どこへ行くの?」(ナンパみたいです) ニコニコ笑いながら「駅へ」と答えます。ここは駅とは反対方向、行き先に駅はありません。 「おじいちゃん。駅は逆方向だよ。よかったら送るよ!乗る?」 すると、やはりくたびれていたのか、助かりますと言いながら後部座席にスムーズに乗ってきました。物腰は柔らかく、紳士然としています。赤いスリッパは、片方は底がぺらぺらにはがれて、かなりの距離を歩いたことがわかりました。 まず自己紹介をして、名前を聞くとはっきりと返って来たのでちょっと安心し、どこの駅に行くの?と聞くと曖昧に笑いながら答えません。 「???」 「北浦和ですか?」 「そう北浦和」 「浦和かな?」 「浦和だね」 ・・・ 「じゃあおじいちゃん、どこから来たの?そこへ送るよ」 にこにこ笑いながら首をかしげて「???」 (さてどうしよう) 「出身はどこなの?」 「新潟」 「ええ!私も新潟だよ」 「そうですか」 笑顔は変わらない。 「向こうは雪が多いですね」 「家の田舎は、昔は2メートル以上も積もったよ!」 しばし歓談しつつ、「とにかく駅まで行こうか」と提案すると素直にうなずく紳士に 「ところでおじいちゃん、電車に乗るお金ある?」 するとにっこり笑って首を横に振り、はっきり意思表示。 「ダメじゃん!」 笑っている・・・なんか私まで可笑しくなってしまいました。 「おじいちゃん、よかったら警察に連れていくから、お巡りさんに家を探してもらって帰ろうか。それでいいかな?」 警察と言うと、拒否反応があるかな?と思いましたが素直に「はい」と言ってくれました。 「じゃあ電話するね」 車を農道に止めてケータイで初めての110番・・・すぐに、固い緊張した声の婦警さんの声が響きました。「事件ですか?」 いえ、迷い人を保護したと思います。警察署に連れていきますので、最寄りの警察署の場所を教えて下さいと伝えると、丁重にお礼が返ってきて、即そちらに警官が参ります、とのこと。 場所を教えて待っている間、車の後部座席に置いてあった、息子の大学の名前の入った団扇を珍しそうに手にとって見ているので、それは息子の母校なの、海の大学なのよ、などと他愛のない話をしている内にパトカーが2台、計4人の真面目そうな警察官を乗せてサイレンを鳴らさずにやってきました。 降りてきた警官に手早く状況とお名前を伝えて、お引き渡ししました(まさに引き渡し・・・何だかちょっと胸が痛みました) ちょっと緊張状態で事態を見守っていた紳士は、パトカーに乗り換えた後少し元気がなかったので、大きな声で 「じゃあおじいちゃん!元気でね!」と窓越しに言うとニッコリとあの笑顔。 お互い、手を振って別れました。横で警官が笑っていました。 帰路、私の心に残ったのは、行く先もはっきりわからず、どこから来たかの記憶もないおじいちゃんの笑顔でした。 まさに陳腐な表現ですが、その天真爛漫さに何だか胸を衝かれました。 さぞや不安なんだろう・・・なんて、私の勝手な思い込みに過ぎず、もしかしたらそういうものは外からは見えなかっただけかもしれませんし、認知症の脳の機能障害でそうした感情は損なわれているのやもしれませんし、はっきりしたことはわかりません。 でもあの日以来、あの笑顔が思い出されてなりません。 「どこから来て どこへ行くのか」知らない人の、あの笑顔。 昔から多くの人が悩み続けた問いの中で私たちは生き続け、そしてその解も実はこの生の中に秘やかに示されているやも知れず・・・秋の日に迷い人に出会ってから、妙に気持ちがざわめいています。 追伸)写真は、一昨年の日高市の巾着田の曼珠沙華です。盛りは今、です