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昨日の続き…自分の記憶が改ざんされている、それは外ならぬ自分によって。
そんな事をぼんやり考えていたら、数年前に香山リカさんが医療現場の雑感で書いていたエッセイを思い出しました。 テーマは、最近の親子の問題。 子煩悩で周囲から子供を甘やかし過ぎると言われている父親が、大人になった娘に糾弾される。 「可愛がられた事がない」、「今まで愛された事が全くなかった」、「だから病気になった」 茫然としながら、そんなことはない、自分はずっとお前を大事にしていて、親戚からは甘やかし過ぎると心配をされていたと困ったように笑う防戦一方の親と、心を閉ざした硬い顔の子が並ぶ。 そして二人の横で、為すすべもない医師。 精神科医の香山さんの心療内科での話ですが、こんなケースが増えていると。 どうしたらいいかわからないとも。 客観性は、厳密な意味で客観的ではなく。 人はそれぞれ自分のフィルターを通してしか世界を見れないし、関われない。 自分の色メガネでしか。 しかし、近しい者たちはある程度、互いの見方や世界観に共鳴して生きている、家族とか、友人とか。 そうでないと、そばにいることは難しい。離れないと場を壊すか、身体や心を病む。 この父さんの「子供を愛する世界」に、娘は共感できなかったのだろう。 または、ずっと無理して合わせ続けて破綻し、病となって恨みとなったか。 共有した時間や想い出はどんなだったか。 一方的にどちらかが悪いと言う訳ではなく、これは双方に返っていくこと。 父さんは昔されたことを、ただ踏襲しただけかもしれない、それが愛と思っていた。 子は、合わせ過ぎて自己をなくしたか、親に合わせる事が孝行と思ったか、自己を見失ったか。 いずれにせよ問題は起こり、親子関係は破綻した…ただ、これは双方にとっての幕開けでもありはず。(たやすい道のりではないけれど) 記憶の話から横道にそれてますが(ストライクかもしれないけど)、何故人は、新しい経験をしても、PCにするように単純に上書きせず、こだわりの記憶を1番上に出すのか。 その記憶とて、自分の好みのもの、選んだもの、選ばざるを得なかったと思い込んでいるもの。 この話題、気になるので、もう少し引っ張りま~す(^人^) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年08月22日 08時27分17秒
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