ことりのそら

2006/03/05(日)22:36

森の詩・2

ちょっと創作(4)

 木々の間から夕闇がしみ出し始めた。  何かの視線がくもの糸のようにまとわりついて、体が重い。  遠くで騒ぐ鳥の声が、いやに耳元に響く。  何かが頭の中で動き始めている。  追い払うように頭を振ったとき、足元ががさりと鳴った。  目の前から黒い影がばさばさと飛んだ。 「……!!」  反射的によけようとして、彼は自分がとろうとした行動の危険さに気付いた。そして影がただの鳥であったことにも。しかし遅かった。後ろに引いた足の下に、地面はもうなかったから。 『森モ怒ルコトガアルノヨ』  頭の奥でそんな声が聞こえたような気がした。それが心に届くより早く、闇が全てを呑みこんだ。  深い水の中から浮かび上がるような感覚に目を開くと、翠の瞳が覗き込んでいた。白い肌、亜麻色の髪、そしてその髪から長く突き出した、尖った耳。彼は思わず身を起こした。そして体の芯を突き抜けた激痛に顔を歪める。 「腕の骨が折れているわ。脇腹もひどくぶつけているみたいだから、急に動かない方がいいわ。」 南の国の海のような色の瞳で彼を見つめながら、少女はてきぱきと応急処置に使ったらしい布を片付け、木でできたコップを差し出した。 「痛み止めの薬草よ。少しは楽になると思うわ。」 彼はゆっくりとそれを口に運んだ。予想に反して薬はかすかに甘く、不思議な香りが痛みを少しずつ宥めてゆく。短く礼を言ってコップを少女に返しながら、彼は少女の白い手に光る銀細工の腕輪を見つめ、そして少女を見上げた。 「君は……」  それを聞いて少女は首をかしげた。 「忘れたの? 私は『森の守り』よ。この森を守っているわ。あなたは昔会っているでしょう?」 彼は目を閉じて頭を振った。昔の時間に引き戻されていくような気がして、思わず自分の腕をつかむ。 「そうだ。…でも、君はちっとも変わっていない……」 かすれた声にうなずいて、少女は小さく笑ってみせた。 「私たちは森の時間を生きているわ。木よりももっとゆっくりの時間を。だからあなたが子どもの時も、一晩足らずの間に何日もたっていたでしょう? あれでも精一杯急いだのよ。」  彼はあいまいにうなずいた。小学生が夏休みに訪れた田舎の山に遊びに行ったきり、夕餉の時刻になっても帰ってこなかった。夜になっても子どもは帰らず、村中総出で探したが、それでも見つからなかった。翌日もその次の日も捜索は続いたが、声をからしての呼びかけに応えるのは森とそこに住むものだけ。そんな日が続き、母親に泣く気力も失せたある朝、子どもは村外れの草むらに眠っているところを発見された。  事実はそれだけだった。少年の話は子どもの見た夢の一言で片付けられたが、山で何日も迷っていた幼い子が傷ひとつなく、衰弱もせずに見つかったという不思議を説明する術は誰一人として持たなかった。ただ、狂ったように我が子を捜し求める母親を宥めようと村の老人が置いていった言葉だけを、後に母親は少年に語った。まだ数えで七歳の子なら、山の神さんが守ってくださるじゃろう、老人はそう言ったと。 「本当にあったことかどうかも…わからなくなっていた…」 相変わらずかすれたままの声で彼は呟いた。けがのない右腕で額を押さえる。少女はわずかに口を尖らせて首をかしげたが、それは彼の目には入らなかった。 「人間って忘れやすい生き物なの?」 彼は顔を上げ、苦笑しながらそうかもしれないとだけ答えた。少女は頭をひとつ振ると椅子に腰かけた。 「どうしてあんなところにいたの? 覚えてる?」 少女の言葉は彼を急に現実に引き戻した。彼は腰を浮かせ、思い出したように体を突き抜けた痛みに顔をしかめた。 「そうだ。僕は現場を見るために…それから道に迷って…」 「現場?」 少女が眉根を寄せる。彼はうなずいた。少し誇らしげに。 「僕が初めて任された仕事なんだ。ここを造成するんだよ。」 少女は首をかしげて彼を見上げた。 「わからないわ。それ、何?」 「街を…家を作るんだ。人の住む家だ。ここを切り開いて平らにする。それから家を建てるんだ。たくさん、たくさん。そしてそこに人が住む。町ができるんだ。」  彼は熱っぽく語った。やがてできるその町がいかに美しく、住みやすく、そして活気にあふれた場所になるのか。どれほどの人がそこに住み、それぞれの生活を綴っていくことになるのか。  目を輝かせて語り終え、彼は少女を見た。昔蝉やかぶと虫の話をしたときのように、少女もまたいきいきと町のすばらしさを描いていてくれると、そう思っていたから。その彼の前で、少女は静かな表情にわずかな愁いを湛えていた。 「…どうしたんだい?」 思わず少女の顔をのぞきこんで、彼は訊ねた。少女は小さく首を横に振ったきり、何も答えない。 「わかるかい、家だよ。ここみたいな、家……」  そこまで言ってようやく彼は気付いた。思わず周囲を見回し、そしておそるおそる少女に視線を戻す。少女はまっすぐ彼を見つめていた。翠の瞳に静かな光をたたえたままで。 「そうか……」 彼はうつむいた。少しずつ顔が赤らんでいくことを感じながら。 「ここは…君達の…『家』なんだ……」  少女は何も言わなかった。うつむいたまま、彼は目を閉じた。鳥の声、葉擦れの音、虫の羽音。花の香りと緑の匂い。それら全ての、そして目の前に座っている少女の、ここは家なのだ。 「…『森』は、待ってしまうの。」  長い沈黙の後に少女は静かに目を閉じた。 「人間たちも…昔は森の生き物だった……。人間たちが森を離れても、でもそこに住む仲間がいることを、いつか思い出してくれるかもしれないって……待ってしまうの……。人間たちにはここが邪魔な土のかたまりにしか見えないのね、きっと。だけど私たちはここに住んでいるし、人間だって、森から離れても生きられるかもしれないけれど、でも森がなければ生きていけないわ。いつか気付いてくれるかって……待ってしまうの……。待っている間にみんな滅ぼされてしまっても、でも待ってしまうの。殺したく、ないから…。…だけど……いつ気付いてくれるの?」  まっすぐな視線を受け止めかねて、彼は黙ってうなだれた。 「…ごめんなさい、責めているんじゃないの。」 同じようにうつむいて、少女は呟くように言った。 「だけど……。そうだ、僕は君を追い出すつもりはなかった。だって子どものころにいたのはここじゃない……」 必死に弁解する彼の言葉に小さくかぶりを振ると、少女はひとつため息をついて彼を見つめた。 「あなたが会った森の守りは、私じゃないわ。…あの子は、もういない。」  沈黙が彼を撃った。言葉を失って少女を見つめる彼を見つめ返したまま、少女はわずかに面を伏せた。 「私たちはどこにでもいる。山の奥深いところの森にも、神社の杜にも。暑いところの大きな森にも、寒いところの苔の森にも。砂漠の中の小さな小さな森にだっているわ。そしてね、みんなひとつなの。あなたが昔会った森の守りと私は違うけれど、でも私はあの子を通してあなたを知っているわ。あなたのことを、あの子はとても気に入っていたから。…でもね、あの子はもういないわ。あの森は黒い傷の下よ。」 「黒い傷?」 喘ぎながら、彼は不可解な単語を復唱した。少女はわずかに視線をさまよわせ、人間の言葉を呼び寄せた。 「あなたがたは『道路』って呼んでいるわね。…あれを造るために、あの子の住んでいたところに鉄の牛がたくさんやってきたのよ。みんな逃げるように勧めたわ。でも、ほんの少しでも木が残っているならそこが私の森だからって、あの子は残ったの。地面が黒く固くなってしまっても。そのうちに鉄の虫がたくさん走り始めて。…あの子はだんだん弱って、そのうちに息ができなくなって死んだわ。…もしいつか黒い石がなくなったら、またそこに森ができるように…死ぬ前にあの子はそう言ったから、私たちはあの石の下にあの子を埋めた。」  少女は一気に語り終えると目を閉じた。彼は少女の足元に視線を落としたまま、息をすることも忘れていた。 「…ねえ、教えて?」  少女の声に、彼はおずおずと顔を上げた。翠の瞳は静かに澄んだまま、ただ彼を映している。 「教えてほしいの。どうしてなのか。私たちにはわからないの。人間達がどうして、あんな傷をたくさんつけるのか。どうして家を作るのに森や山を削ってしまわなきゃいけないのか。どうして川に毒を流して、その毒と一緒に魚達を食べているのか。風だってそうでしょう、あの子や森が生きていけないなら、人間だって生きていけないはずなのに、どうして風を汚すのか。…私たちにはわからないの。人間達はわたしたちが嫌いなの? 自分達も嫌いなの?…わからないの、私たちには。…教えて?」  彼は答えを見つけられないまま、ただ口をぱくぱくさせた。  少女の言うとおりに違いない。紙を作るためにも、道や家を作るためにも、人間は森や山を削る。近代文明は同時に公害の問題を引き起こし、それはまだ解決されないまま、様々な生命がただじわじわと冒されてゆく。その様が少女達の目には自分で自分の首を絞めているようにしか見えなかったとしても、何ら不思議はない。 「…確かに、そうなのかもしれない」 汗ばんだ手を握りしめ、彼は呻くように答えた。 「…だけど、僕たちには必要なんだ…。君の言う『黒い傷』も、水や空気を汚す原因になっている文明も。…君は電気やガスがなくても生きていけるだろう。だけど僕たちにはそんな生活はできない。車は…『鉄の虫』は…君達にとっては空気を汚すだけのものなのかもしれないが…僕たちはあれがなくては生活できない。…昔はそうでなかったかもしれない…でも今はもう、だめなんだ。…戻れないよ。」  その時、急に少女が耳を塞いで悲鳴を上げた。崩れる細い体を彼はやっとのことで受け止める。 「どうしたんだ」 彼の腕の中で、少女は耳を塞いだまま激しく身を震わせた。 「木が…木が……!」 彼はふり返った。そして知った。いつの間にか工事が始められていたことを。そして自分が再び森の時間の中にいたことも。

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