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2019年06月20日
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カテゴリ:奈良の町歩き
奈良県で観光地といえば、飛鳥、天平の古代から伝わる寺社が真っ先に思い浮かぶかと思います。
最近は関東を中心にJR東海のキャンペーンもあり、ますますその傾向が強いのではないでしょうか。

奈良といえば古代ロマン。

そんなイメージが強いなか、我が地元の大和郡山は町の中心が中世以降に発達したこともあり、全国的にもかなり地味な町です。
金魚の町くらいしか思い当たらないって方も多いかと思います。
そんな地味~な町の結構いいとこをご紹介していきたいと思います。

第1回はそんな郡山の町の真ん中にある「郡山城」をご紹介します。

★復元された追手向櫓と追手門(梅林門)。

郡山城は近鉄郡山駅から徒歩10分ほどの場所にあります。
桜の名所として知られ、「日本さくら名所100選」にも選ばれており、毎年4月上旬に開催される「お城まつり」では土日ともなると朝から晩まで多くの見物客でにぎわいます。
「お城まつり」の時以外は閑散としていますので、ゆっくり城跡散策を楽しみたい場合は桜の季節は避けたほうがいいかもしれません。


★天守台から法印曲輪を望む。右手に見えるのが城址会館。

城跡は2017年に「続日本100名城」に選ばれました。
往時の遺構は基本的に堀と石垣で、櫓や門はすべて復元になります。
法印曲輪に建っている城址会館がよく天守閣と間違えられるのですが、これは旧奈良県立図書館を移築したもので、明治時代の建築となり奈良県指定文化財となっております。

ちなみに郡山城の城門であったという門が城跡に隣接する永慶寺の山門として残っています。



★幕末に郡山城から移築されたという永慶寺の山門。

こちらの山門は秀長時代に造られた安土桃山時代の城門建築様式を伝える貴重な遺構になります。
また大和郡山市内に現存する郡山城の遺構のうち唯一の木造遺構となります。

ここで簡単ですが郡山城の沿革をご紹介しましょう。

郡山城は富雄川と秋篠川に挟まれた西ノ京丘陵の南端部に位置する平山城です。
丘陵の先端部にあって、竜田越奈良街道や下つ道といった古代からの街道に面しているとくれば、築城にはうってつけの立地といえるでしょう。

城が作られるのは応保2年(1162)郡山衆によって「雁陣之城」が築かれたというのが文献上の初見です。
平安時代の末になりますね。
それ以前は、奈良時代に薬園が置かれていたとされています。
それを物語るように、市内の材木町に「薬園八幡神社」が鎮座しております。
この神社は当初は現在地よりお城寄りの塩町にあったそうですが、郡山城築城にあたって室町時代に現在の場所に移ってきたそうです。

郡山城が近世城郭として飛躍するのは1580年、筒井順慶が拠点を筒井城から郡山城に移して大和の中心城郭となったことがきっかけでした。
信長が同年破城令を出して、大和では城一つを残して後は破却するよう命令しています。
これを受けて地形的にも不利な点が多い従来の拠点筒井城に順慶も見切りをつけたのでしょう。
順慶はそれまで砦程度であった郡山城の大規模化と城下町の整備を進めますが1584年に若くして亡くなってしまい、養子の定次も1585年には伊賀に転封されます。

筒井氏に替わり、豊臣秀吉の異父弟である秀長が大和、和泉、紀伊100万石余の太守として入府してきます。
同年に大坂城が完成しており、大坂に本拠を置く豊臣秀吉にすれば最も信用のおける身内を大和に置いておきたかったのでしょうね。

秀長のもと城郭は100万石の主城にふさわしく大規模化され現在の主郭の大部分が築造されます。
また、城下町も急ピッチに整備して「箱元十三町」と呼ばれる町割りをおこないます。
この町割りは現在もそのまま町名が残っており、現在の郡山中心市街の原型がこのころ出来ました。
秀長は町を作るだけでなく、その振興のため奈良での商売を禁止して、商業を郡山に集中させる政策をとります。
奈良といえば、それまで大和を支配してきた興福寺のおひざ元。
大和に入って早々にその奈良の商売を禁止するとはなかなかの剛腕と思います。
奈良で商売を禁止されては、そのあがりで潤っていた興福寺にとっては大打撃でしょう。
なので、それなりに抵抗もあったのではと思われますが、大きな混乱はなかったようです。

秀長自身、大和入府以前に、大和同様国人の勢力が強い紀伊の支配も着実に進めていますから、兄秀吉の威光も利用しつつ、硬軟取り混ぜてうまく大和も支配していったのかと思います。

紀伊、大和は国人ほか、旧来の宗教勢力も強い地域で相当「よそ者」には治めにくい地域であったと推察されます。
なので興福寺の衆徒であった筒井氏およびその被官となっていた多くの国人土豪をまとめて伊賀に移し、奈良の商売を禁止することで、興福寺の実力をうまく削いで、豊臣氏による大和支配を円滑に進めていったのでしょう。

話がいささかお城からそれましたのでもどします。

秀長1591年、郡山城で病没して後を継いだ秀保も1595年急死すると、大和大納言家は断絶。
100万石の城下町の時代は10年ほどで残念ながら終了となります。
そのあと、豊臣政権の五奉行の一人、増田長盛が22万3千石の大名として入城しますが、この増田時代に後に50町(約5.5キロ)まで拡張される堀と土塁で城下町を囲む、壮大な「惣構え」が構築されました。

要するに、郡山の町全体が「お城」になったわけです。

★郡山城絵図(柳沢文庫蔵)赤は寺社、茶は町人町、白は武家の住宅。

上の古地図は安政年間といいますから幕末ごろの郡山の絵図です。
ちなみに上が南で下が北になってますので、現在の見慣れた地図とは真逆ですね。

現在でも内郭の水堀は、三の丸を除いてほぼ良好な形で残っています。
外堀は残念ながら東側を除いてほとんど埋め立てられ(もしくは埋まってしまい)、往時の姿はとどめていません。​

その後、1600年の関ケ原の戦いで増田長盛は西軍側についたため、城主長盛は高野山に追放、城は徳川に接収されます。
1615年の大坂夏の陣では、大坂方の焼き討ちにあって城も城下も一時荒廃しますが、戦後軍功をあげた​水野勝成​​が6万石で入り、城郭の修復と城下の復興を進めます。

また水野氏の後、大坂の陣後の大坂復興に大きな手腕を発揮した​松平忠明​が​1620年に12万石で入城して復興に努めました。

その後、本多氏→松平氏→本多氏と目まぐるしく(今までも十分目まぐるしいですが)城主が入れ替わり、1724年に柳沢吉里が甲斐甲府から15万石で移封され、以後幕末まで柳沢氏の居城として続くことになります。

駆け足で郡山城の沿革をお話ししてきましたが、次は現在の城跡の様子など写真を交えてご紹介していきます。



~ちょっとお茶の時間~
ということで、少し地元のおいしいものをご紹介しておこうと思います。

郡山城の城の口にあります、天正13年(1585年)創業の老舗の和菓子屋さん、​御菓子司 本家菊屋​さんです。

1585年といえば、秀長が入場したその年に創業なので本当に長い伝統を誇る老舗です。
上のリンクでお店のHPをご覧いただけるとわかるのですが、店構えも立派で、本店では軒先でお菓子をいただくこともできますので、街歩きの際にお立ち寄りいただいてもよいかと思います。

菊屋さんの創業以来の名物が、豊臣秀吉が名付けたとされる「御城之口餅」こと「うぐいす餅」です。



あんこがいっぱいですが、ほんのり上品な甘さで、お茶と非常によく合います。
地元ではお土産品としてド定番になります。

あと、個人的に一番好きなのは「菊之寿」というお饅頭。
[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

御菓子司 本家菊屋 菊之寿 5個
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好きすぎて今でも「自分用」に買うほどです。
生地に練乳が入っていてほんのり甘く、少しイメージが近いのは「博多とおりもん」でしょうか。
洋和菓子という感じで、小さなお子さんからお年寄りまでおいしく食べられます。

お菓子がお好きな方は是非一度お試しください!

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最終更新日  2019年07月05日 11時23分00秒
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