2013/03/07(木)11:08
腐れ縁・雑種の勧め
親戚の子が私立幼稚園→私立小中大一貫校に行くそうです。
因みに女の子。
今回はこのことに対する批判というか、懸念の指摘。
私のおじさん・・・この子の祖父は地元で仕事をしている関係からも 地元の幼稚園、学校に通わせたかったようです。
私は大学まで含めても東京都の中で収まっていますので比較的地元志向であるといえます。
で、この年齢になってみると、『他人は自分を映す鏡』というのを実感します。
自分が相手に対して苛立つ要素だとか、面白いと感じる部分、ありがたいと感じることなどが出てきます。
ただ、これって短期間のつきあいで発生して、その付き合いが切れてしまうと”その時だけ”になりがちです。
ところが、これが幼稚園くらいから知っている(友達とは思わなくても可)奴だと紆余曲折はあっても相手の変化は勿論のこと、自分が相手に対する見方が変化していることに気づけば”自分自身の変化”を認識することもできます。
これが仕事での付き合いから発生した要素というのはメリット、デメリットを追いがちで今一歩踏み込めなかったりする印象があります。
小学校時代に虐めにも合いましたが、殆どが隣接する公立中学に進む環境では 『最悪嫌でも9年間同じ空間で過ごす』ことが強要されます。
ただ、この時期に『長期間付き合う相手との処方』を自分の中に作らないと社会に出てから・・・(これは主婦になると近所づきあいでさらい厳しい)まぁ、どうにもならんわけです。
そして、同時に相手の動きを心身ともに見ようとすれば『本当の自分』(夢見がちな言い方ですが・・・)にはなれなくとも、自分が”他人”という成分からもかなりの部分成り立っていることが判る。
=社会的動物 であるところの人間が見えてくるわけで・・・。
私立でも幼~大学まで一貫なら同じことだろう・・・そう取られるかもしれませんが、少なくとも通学に電車を使わせているようなところでは なかなかうまくいかないだろうなぁというのは通勤時にそうした子供の言動を見ての感想。
目線が狂っちゃうんですよ。
特に女の子。
純正栽培のように言われる効した私立ですが、大人の薄汚い部分が一足飛びに成長しちゃったりする。
歳をとれば自然に加わるものなのに・・・。
自分のHomeをどこに定めるかは人それぞれですが、自分が簡単に排除できない時期だからこそ義務教育の時期には多くの交わりを持って雑種になることが必要だと感じます。
それも、できることなら好き嫌いを超えてできるだけなが~く。
相手を許すことができない人に、許す=許容する部分を認めることのできない人に先につながる付き合いも、取引も難しいと思うんです。
そのための下地が認められない社会になっているのはなんとも。。。ねぇ。
と、会社でのお話も拙速で近視眼的で相手を省みないものになっていると見ている会社勤めの人は思うのでした、と。