テーマ:公共工事について(23)
カテゴリ:できごと
一昨日の新聞で読みましたが、以前、市長選で前市長の対立候補(現市長)を応援した建設業者2社が市の仕事の請負の入札から排除されたとして裁判を起こし、市側の敗訴がこのほど決定しました。求められた1936万円のうち、市はまず1861万円を業者に支払ったそうです。
たいへん遺憾です。市は「排除していない」と主張してきましたが、仮にあったとしても、その処分をやめてもらえればよかったはずで、損害賠償の問題にする必要は無かったのではないでしょうか。そもそも、建設業者が市長選挙を応援することはよいこととは思えません。当選したら取り立ててもらえる期待があるのですから、応援した人が落選すれば冷遇されるのは覚悟しなければならないはずで、実際にそうなってしまったからといって、それを補償してもらうのはどうなのでしょうか。 言っておきますが、私は、どちらの市長も、いずれの建設業者も責めるつもりはありません。そういう慣習があったなら、しかたなかったのかもしれないからです。私にはわからない「事情」があるのかもしれません。とにかく、誰かを非難しても過去はもどってきません。大切なことはこれからのことです。もう二度とこのようなことを起こさないでほしいのです。リコール問題の根っこにこのような事があり、市の未来がこういうもので左右されるとしたら、わたしたち市民としてはたいへん困ります。 こういうことを続けていると、政治家も建設業者自身だって困ったことになるでしょう。今の時代はネットで情報発信や共有が簡単にできるため、従来の「常識」が今までのようには通らなくなってきていると感じます。元民主党代表の小沢さんがよい例でしょう。従来のやり方を改めなければ、最後にはみんなからそっぽを向かれて寂しい結果になってしまうと思いますよ。 人間関係は、「絆」として使うなら、たいへん素晴らしいものです。公益のためという理想があり、お互いが連携して得意なところを持ち寄って、助け合えば相乗効果がでるからです。しかし「しがらみ」はいけません。恩をうって、それを足掛かりに個人や仲間内の利益を優先すれば、ときに敵を作ったり、仲間以外の人々の思いをないがしろにしてしまったりします。 これからは、こういう慣行はもうやめて、倫理観をもって、私欲を捨て、なにが公益になるかを考えた行動をお願いしたいと思います。これは「きれいごと」ではありません。ちょっと発想を変えれば可能なことです。では、どのように考えればいいのでしょうか? それは「富は奪い合うべきものではないと認識すること」だと私は考えます。 限られた仕事を、多数の業者が奪い合う構図と思えば、なるほど、自分がライバルに勝たねばならないと思いこんでしまいます。それはとても苦しいことということは容易に想像がつきます。入札に勝つために無理して値引きをして、適正な儲けがなく、工事の質が落ちてしまっては何にもなりません。またそうしたら最悪な話、事業が続けられなくなってしまうかもしれないでしょう。 そもそも、価値は値段の安さだけで決まるものではありません。ていねいにやるのも価値、アフターの面倒見がいいのも価値、必要のないことはなくても大丈夫ですよと言うのも価値です。安心の材料を使うのも価値だし、最新の工法などを勉強して説明するのも価値です。そして、大手ゼネコンの下請けをやるのではなく、自分が作るならこうあるべきだという提案をする価値はいかがでしょう? こう考えてください。古河市の未来を設計して作り、それで市が発展すれば、仕事そのものが増えると。市民や市の担当者と一緒になり、みんなで夢と希望を育み、アイデアをもらいつつ、悩みを相談して解決しながら前進していく。それは「プライスレス(価格がつけられないほど価値があること)」です。なぜ低レベルの争いを続ける必要があるというのでしょうか。 いま、建設業者さんは、「土建屋」と呼ばれてイメージがあまりよくありません。そこから脱皮してほしいと思います。「コンクリートから人へ」といううたい文句がありましたが、とんでもありません。建設の使命は、コンクリートを使って人々を豊かにすることです。学校も病院もコンクリートなしではできません。みんなが使い、役に立てるものを作るという、みんなを幸福にする仕事なのです。どうか自信をもって、いい仕事をなされるよう希望します。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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