982215 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【ログイン】

真理を求めて

2004.01.26
XML
カテゴリ:カテゴリ未分類
昨日のTBSテレビの報道特集で、生まれたときから耳が聞こえないという障害を持った子供のルポをしていた。そのルポでは、若い両親が、その子を手話を使って子育てしようとしている様子を伝えていた。両親はともに聴覚障害はないので、それまでは手話を全然知らなかったが、子育てをすると決心してから手話の勉強を始めていた。

その子は耳が全く聞こえないので、両親がいくら言葉をかけても、話し言葉でコミュニケーションをとることは出来ない。手話でなら、子供とのコミュニケーションが直接とれるのではないかと、その両親は考えたのだった。番組では、子育ての最初から手話で育てようと考えたのは初めてだったのではないかと語っていた。

しかし、よく考えてみると、これはきわめて論理的な考え方なのではないかと思う。耳が聞こえないのだから、音声言語を獲得することはおそらくできないと思われる。だからといって文字を獲得するまで待っていたら、いつコミュニケーションがとれるようになるか分からない。体の動きが、心を表す手段だということが子供に伝われば、最初は簡単な表現しかできなくても、心の発達に応じてだんだんと表現がふくらんでいって、コミュニケーションが深まっていくのではないかと予想するのは合理的な感じがする。

心を表現する手段を持てば、知能の発達にも影響を与えるに違いない。自分の心を見つめて、それを正しく表現する手段と結びつけるという思考が働くからだ。外界のものを認識するという意識も、表現しようという意欲がなければ働かないのではないかと思う。ものを分類したり、その特徴を概念化して、同じものと違うものを区別するというのも、表現手段があって、表現と結びつくことによってその力が伸びるのではないだろうか。

その子は、耳が聞こえないにもかかわらず、普通の子供が話し始める1歳を少し過ぎたあたりから、身体で表現するという手話を使い始めたのだ。この場面に僕はとても感動した。両親の願いが実現したということに対する喜びの共感もあったが、合理的に考えたことが、その通りになったことに感動したのだった。ヘーゲルの言葉にあるように「合理的なものは現実的である」ということが本当なんだなあという実感がわいてきて感動した。

もしこの子が手話でコミュニケーションを取るという環境にいなかったら、知能の発達にも何か障害となるものが残ったのではないかと感じる。その年齢にふさわしいコミュニケーションを取る手段があったからこそ、その子は健全に発達することが出来るようになるのではないかと感じた。今は2歳くらいだけれど、この子の今後は、耳が聞こえる子供たちと違いがあるのは、おそらく耳が聞こえないという点に関してだけになるのではないかと思った。

この子は、両親が手話で育てると決心したので、家庭での手話コミュニケーションの環境を作ることが出来た。それだけではなく、手話コミュニケーションが出来るもっと大きな場にも恵まれていた。龍の子学園と呼んでいただろうか。そこには多くの聴覚障害を持つ人が集まってきて、手話によって子供たちに様々の活動を提供していた。小学生や中学生には、手話を用いて教科の授業などもしていた。ここでは、手話を教えるのではなく、手話で教えていた。

子供たちはその環境の中で、手話を勉強するのではなく、普通の子供たちが生活の中で言葉を覚えていくように、生活の中で手話を覚えていっていた。そして、ここに集う人たちが、ろう教育に対して、手話で教育するという選択肢を作ってくれるように要求していた。これは、この人たちが、手話によってこれだけの成果を上げているのを見たら、要求をして当然だと思った。

今のろう教育は、基本的に手話を禁じているらしい。特に公立のろう学校ではそのようだ。それは、世間というものが手話が通用する世界ではなく、その世間で生きて行くには、手話よりも世間に合わせた「口話法(口の動きを見て言葉を受け取る)」がふさわしいと考えているかららしい。しかし、これは子供たちにものすごい労力を要求するもののようだ。この技術を習得することが難しくて、肝心の勉強の中身にまで気持ちが入る余裕もなくなるみたいだ。

それが、手話を使って授業をすれば、自分が考えたことをすぐに表現できるし、相手の表現もすぐに受け取ることが出来る。本当の意味でコミュニケーションが出来るようになるのだ。学習においては、その方が絶対に内容が深まると僕は思った。世間にでたあとのことを考えるよりも、今勉強していることの方を考えた方がいいと思う。

文部科学省は、この要求に対して、手話を使うという方法が、必ずしも効果があるかどうかが証明されていないというようなことを言っていたが、それなら文部科学省が指導している口話法は大きな成果を上げているのかと逆に問いたいような気がする。しかも、彼らの要求は、すべてを手話にしろといっているのではなく、選択肢としてそれを許して欲しいといっているのだ。つまり、希望する人には、手話で教育をして欲しいといっているのであって、口話法がいいと思っている人には、それをしてもらっていいといっているのだ。そういうささやかな要求すら実現できないというのは、どうしてなんだろうと思う。変化というものを嫌う官僚的考えの弊害以外の何ものでもないと思った。

筑波大付属の聾学校の校長だっただろうか、この人はかなり良心的な人だと思ったのだが、子供を手話を用いて育てようということに関して、次のような感想を語っていたのは間違っていると思った。それは、手話というのがほとんど外国語を使うようなものだというたとえをして、もし自分の子供をフランス語で育てようということになったら、親の自分がフランス語を習ってそれで子育てをするなんて不可能なことだというたとえを語っていた。

しかし、手話を習うということは、フランス語を習うこととは全く違うと思う。手話のもとになるのはあくまでも日本語であって、常に日本語の表現と結びつけて手話の表現がある。語彙も文法も全く違う外国語を学ぶのとは違うのではないか。それに、子供とのコミュニケーションがとれるという喜びがあるのなら、関係のない外国語を習うというのと、モチベーションが全く違ってくる。この考えの間違いは、番組が伝えてくれた夫婦を見ると、事実によってそれが不可能ではないことが証明されていると思う。

この日のルポは、ろう教育にとって革命的なものだと思うな。ろう教育に携わる人は、手話が出来るという資格を持つべきだと思った。ろう者が少数だからといって、彼らを聴者(耳が聞こえる人)に近づけるというのは、無理を強要していることではないだろうか。手話がろう者のコミュニケーション手段であることを認め、彼らに対する配慮をすべき場所では、手話こそが主要なコミュニケーション手段であるようにすべきではないだろうか。

さて、イラク報道に関して、マル激トーク・オン・デマンドで神保哲生さんが目から鱗が落ちるという感じの指摘をしていた。たとえば、次のような報道がある。

「陸自先遣隊がサマワで活動内容説明会、雇用に要望続々
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040125-00000112-yom-int

「<陸自先遣隊>老朽化した小学校を視察 イラク・サマワ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040126-00000037-mai-int

「「陸自保護は宗教的義務」サマワのイスラム教導師
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040126-00000401-yom-int

これに対して、僕は、この大いなる勘違いが現実になれば、それは瓢箪から駒のようにいい方向へ行ってしまうのではないかとある種の期待さえ抱いていたが、それはそう見る方も勘違いではないかという思いも生じてきた。最近のこの種の報道が、あまりにも多すぎて異常な感じさえしてきたからだ。神保さんに言わせると、冷静に現実を眺めてみれば、サマワ以外のイラクでは連日自爆攻撃が行われていて、戦闘は激しさを増しているくらいだし、自衛隊に何が出来るかということを客観的に考えてみれば、期待に応えられないと見る方が現実的だろうということだ。そのような現実があって、どうしてこのようなニュースが溢れているかという意味の方を考えた方がいいという指摘だった。

マスコミがこのような報道を流すのはどうしてなのだろうか。自衛隊に世論の圧力をかけて、復興支援に限定した活動だけをさせようというのだろうか。自衛隊のイメージアップを図りたいのだろうか。何か事件が起こったときに、自衛隊はこれだけがんばっていたにもかかわらず、誤解のもとにおそわれたというイメージを作りたいのだろうか。とにかく、今のところこれらの報道は、サマワのイラク人の大いなる勘違いだということが語られている。本当のところはどうなのか、事実として正しいものをもっと信用できる媒体に求めなければならない。神保さんは、日本語だけではなく英文メディアも求めていかなければならないと語っていた。田中宇さんも英文メディアの必要性を語っていた。英語の能力というものが、こういうところで必要になるとは思わなかった。真理のためには、もっと英語の読み書き能力を高めないといけないんだなと感じた。

「<イラク警官射殺>「車目当ての可能性」 サマワ地方警察署 
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040126-00000036-mai-int

この記事を見ると、イラクでの事件は、政治的な意図を持つものばかりでなく、強盗のたぐいもたくさんあるのだなというのを今更ながら感じる。テロというのを政治的な意図を持つものと定義すれば、強盗のたぐいの事件とは区別して受け取らなければならないのではないかと思う。どの事件がテロで、どの事件が犯罪なのか、それも含めて報道されないかなと思うが、これも日本語のメディアでは難しいのかな。英語を勉強しないとならないのかなと思う。

今のところは、そう簡単に英語が上達するとも思えないので、日本語のマスメディアの限界を補う情報源として、田中さんや神保さんの報告というものを見つめていこうと思う。






最終更新日  2004.01.26 08:48:19
コメント(10) | コメントを書く

PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

カレンダー

日記/記事の投稿

コメント新着

真の伯父/じじい50@ Re:自民党憲法草案批判 5 憲法34条のロジック(02/03) 現行憲法も自民草案も「抑留」に対する歯…
秀0430@ Re[1]:自民党憲法草案批判 5 憲法34条のロジック(02/03) 穴沢ジョージさん お久しぶりです。コメ…
穴沢ジョージ@ Re:自民党憲法草案批判 5 憲法34条のロジック(02/03) ごぶさたです。 そもそも現行の憲法の下で…
秀0430@ Re[1]:構造としての学校の問題(10/20) ジョンリーフッカーさん 学校に警察権力…

フリーページ


Copyright (c) 1997-2017 Rakuten, Inc. All Rights Reserved.