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真理を求めて

2004.09.04
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ロシア・北オセチア共和国での中等学校占拠事件が悲惨な結末を迎えた。予想されていたこととはいえ、実際にこのような結果が出てみると、そこから生まれる絶望感は計り知れないものになる。それは、この事件をどう受け止めるかという感情的な問題で、その受け止め方が、今後建設的な方向へ向かうような受け止め方になる希望が持てないという意味での絶望だ。この事件は、単純に「テロリスト」と呼ばれる冷酷な人間がひどいことをやった、というような感情的な受け止め方にとどまるべきではないと思う。

今週の「マル激」では、ゲストの大塚英志さんが「自らに返ってこない論理」に砂をかむような思いを感じると発言している。その例として二つのものをあげている。

一つは、全体主義国家としての朝鮮民主主義人民共和国の姿を嘲笑する日本人の姿だ。国家の意志が個人を支配し、国家の思うままに、その命じるままに行動する人間の愚かさを報道するニュースが日本には溢れている。しかし、一方では大塚さんが挙げていた例として、どこかの学校で生徒に赤フンをはかせて海に飛び込ませるという教育というものを語っていた。これは、すべての子供が赤フンを喜んではいて海に飛び込むのではないと思う。

ここでは、子供の意志にかかわらず、大人がいいと思ったことを子供に強制して、子供がそれに従うことこそが「いい教育」だというような感覚がそこにあるように感じる。全体主義国家の教育とどこが違うのだろうか。全体主義国家を笑う日本人が、自らの同じような行為に対してはそれをギャグに出来ないでいるのだ。「自らに返ってこない論理」だ。

もう一つの例は、石原東京都知事の言葉ということで、中国のナショナリズムの高まりを評した言葉らしい。中国は、サッカーの大会で非常に強い反日感情をむき出しにしていたが、それを評して石原都知事は、「全体主義国家というのは、仮想敵を設定して、それによって国民を統一しようとしている」というようなまことに正しい評価を下していると大塚さんは語っていた。

しかし、よく考えてみると、石原都知事を支持しているような層の国民自身が、実は朝鮮民主主義人民共和国や中国を「仮想敵」として一つにまとまっているような所があるのではないかと、大塚さんは指摘している。同じ穴の狢じゃないかというわけだ。しかし、彼らにその自覚はない。これも「自らに返ってこない論理」の典型だ。

今回のロシア・北オセチア共和国での中等学校占拠事件に関しても、その報道に「自らに返ってこない論理」をたくさん見てしまう。犯人たちの行為は残酷であり、それを非難するのは当然のことであろう。しかし、それを非難するのであれば、その論理は自らにも返ってこなければならないはずだ。ロシアはチェチェンで何をしてきたかというのは果たして問題にされたのだろうか。

ロシアに限らない。世界中で「テロとの断固とした戦い」を表明している国が、一方では何をしているのかということは問題にされているのだろうか。それを全く考えずに、センセーショナルに報道された部分にのみ感情的に反応する姿を見ると、絶望の方がより深く感じられてしまう。

「<国連安保理>ロシアのテロ頻発に非難声明」という記事では、「ロシア・北オセチア共和国での中等学校占拠事件をはじめとするロシアでのテロ頻発を受け、国連安保理は1日、緊急協議を行い、これらのテロを「憎むべき行為」と厳しく非難する議長声明を全会一致で採択した」と報道されている。

確かにこの事件は、ここで非難されるような要素を持っている。しかし、それならば、世界中で非難されなければならない事件は山ほどあるのではないか。その山ほどある事件を想像の中に入れながら、この非難が採択されたのだろうか。

この記事に寄れば、「アナン事務総長も、「社会で最も弱い立場の人々に対する犯罪行為だ」と厳しく非難する声明を出した」そうだが、アメリカやロシアの「テロとの戦い」は、「最も弱い立場の人々」を殺戮していないのだろうか。

「ロシア学校襲撃事件、武装集団はメンバーが殺害されれば子供を殺すと警者」というニュースは、武装集団の冷酷さを表すものと受け取られるだろうが、それでは、予告なしにミサイルで子供たちを殺すイラクのアメリカは、このような言葉を使わないだけ冷酷さは薄いのだろうか。

僕などは、予告をするだけまだ人間性が残っているのだと解釈してしまう。少なくとも、その条件が満たされない間は、子供の殺害はしないということを期待できるからだ。予告なしにやってくるアメリカは、心の痛みさえ感じることなく子供たちを殺すだろう。いったいどちらが冷酷なのだろうか。

この事件では、報道の中のウソというものも気になった。最初の頃の9月2日のニュースでは、次のように書かれていた。

「人質となっている児童、教師、父母らの数は当初、最大四百人とされていたが、タス通信によると、同共和国のズガエフ首相は二日、計三百五十四人であると述べた。
 現地からの報道によると、武装集団との交渉は一日夜、ロシャリ氏の到着を待ち始まった。タス通信によると、犯人側は当局側との電話で「子供たちはみな無事で、けがをしている者はいない」と伝えたという。」
「学校占拠 解放交渉進まず 北オセチア」

人質の人数は未だに正確なものが伝わってこないが、当局が発表したからといって、それが事実であるかのように垂れ流すという報道の仕方に僕は疑問を持った。確かに事実だと認められるかどうかという、ウラをとるということがされていないのではないかという疑いを感じる。

ウソを感じるのは、「プーチン大統領は事件に初めて言及、「人質の生命を最優先に解決する」と述べ、当面実力行使は検討していないことを示した。」(「児童ら26人を初解放=脱出路提案は拒否-ロシア学校占拠2日目」)というニュースについてもそうだ。これは、立場上そういわざるを得ないということがあるのだろうが、論理的に考えれば、この言葉は現実には実行できないということが予想されるので、僕はウソを感じてしまう。

「人質の生命を最優先に」考えるのならば、とるべき道は、犯人側の要求をすべてではないにしても一部受け入れて交渉をすることしかないと思う。しかし、要求を受け入れて交渉するということが果たして出来るのだろうか。もしそんなことが出来るのならば、このような「テロ」事件が起こる前に交渉できただろうと思う。そこで交渉が出来なかったから、武装勢力側は、「テロ」という手段に訴えるしかないところまで追いつめられたのだと思う。

事件以前に交渉できないのに、事件が起きたら交渉できて有利な結果を引き出せたとなったら、これはまさに「テロに屈した」ことになるのではないだろうか。イラクでの人質事件が起きた時に、あの事件の結果としての自衛隊撤退はあり得ないと、ほとんどの人間が論じていたが、あれは論理的に考えたらあり得ないという意味だったと思う。論理的に考えられない、あるいは論理を無視するということだったら現実にはあり得たかもしれないが。論理的に考えたら、「テロ」のあとに交渉したのでは、どうしたって「テロに屈した」ことになるだろう。

とにかく、論理的に考えたら、テロと断固と戦うためには、人質の犠牲はやむを得ないと結論するのが論理だと思う。論理というのは、こういうときにきわめて冷酷な結論を出すものだと思う。問題は、そういう冷酷な論理に対して、犠牲になるかもしれない我々も、「断固としてテロと戦う」という選択肢を選ぶかどうかということだ。

断固として戦うのは、ある種の利権を侵されるのを防ぐためだ。チェチェンに独立されてしまうとそこにある利権が失われる。だから、独立の動きを徹底的に弾圧するのだと思う。チェチェンの人々が、独立をあきらめ、奴隷的な状態を受け入れない限りテロとの断固とした戦いは終わらないだろう。

そこまで、たとえどのような犠牲を払おうとも戦いを続けるのだと、「テロとの断固とした戦い」を支持する人々は覚悟しなければならない。そういう覚悟の上であの事件を受け止めなければならないのだと思う。

この事件はひどい結果になったが、そのひどさも、犯人側を非難して感情的に受け止めるだけなら、やはり絶望感が残るだけだと思う。論理的に考えれば、「テロとの断固とした戦いをする」と覚悟したのであれば、あの犠牲は仕方がないと受け止めなければならないし、今後もチェチェンの人々を奴隷的に弾圧しない限り犠牲は出るのだと覚悟しなければならない。

その覚悟が出来なければ、もう絶望するしかないのだというのが、この事件のやりきれなさだ。この事件が予想外に早い展開を見せたのは、犯人側が食料や水の差し入れを拒否したことにもあるだろう。犯人側は、ほとんど死ぬ覚悟で事件を起こしているだろうから、時間を長引かせる交渉をする気がなかったのだろう。

もしこの状態でずるずると長引けば、「人質の命を優先」ということが言葉だけのものであることが分かってしまう。だから、長引かせて犯人側の疲れを待つという作戦がとれなかったのだろう。その前に人質が参ってしまうので、交渉が出来ないとなれば、ぎりぎりのところでつっこまざるを得ないというのがロシア側の判断ではないかと思う。

きっかけとしては、犯人側かロシア側かどっちかというのが詮索されているが、何がきっかけにしろ、ロシア側はつっこまざるを得なかっただろうと僕は思う。そして、その選択は犠牲者を大きくするということは確かだったようだ。

この事件を起こした犯人たちは、この事件の表層だけを見ると冷酷でひどいヤツに見える。しかし、そこに至るまでの過程というのはどういうものだったのだろうか。もし、その過程で何かが改善されていたら、彼らは「テロリスト」にならなくてすんだのではないだろうか。

この事件の受け止め方は、ここまで彼らを追い込む前に何らかの改善を図るかどうかということにかかっているように思う。それが出来なければ、犠牲を払う覚悟をするしかないのではないか。彼ら自身もこれまでに多くの犠牲の中で生きているのだと思う。

神戸新聞社説(「ロシア学校占拠/テロの愚かさ知るべきだ 」)には、その最後に次の文章がある。

「市民の犠牲をいとわない犯行を通じて、自らの主張に目が向けられるはずもない。民族の前途は切り開けない。独立派は、そのことを認識しなければならない。」

これは、ほとんどの人が賛成する普遍的な真理に違いない。しかし、この真理を認識していてのなおかつ、あえてこのような「テロ行為」を選んでいるとしたら、この言葉はむなしく響き、絶望感を増幅させるだけだ。

いったい、誰かがチェチェンの主張に目を向けてくれたことがあるのだろうか。どのようなやり方をすれば、世界が目を向けてくれるのだろうか。誰も目を向けてくれないのは、そのまま我慢して死ねと言っているのと同じではないだろうか。彼らの主張に賛同はしないだろうが、この事件によって「目を向ける」と言うことには成功しているのだ。

神戸新聞の主張は、事件と関係のない、自らは安全な立場にいる人間が語る正論に過ぎない。この正論が真理であるということにも僕は絶望を感じる。この真理に反しても、あえて「テロ行為」の方を選び取る、武装勢力の人々の、僕などよりももっと深い絶望を受け止める必要はないのだろうか。その絶望に思いを馳せない限り、「テロ行為」による犠牲者は決してなくならないだろう。「テロとの断固とした戦い」を主張する人間は、その覚悟もまた語らなければならないと思う。

また長くなったので、コメントの方に二つほど移そうと思う。





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最終更新日  2004.09.04 11:47:17
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