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真理を求めて

2004.09.11
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カテゴリ:ジャーナリズム
今週の「週刊金曜日」は、「ブッシュの4年」という特集を組んでいて、「テロとの戦い」の本質を考えるための情報を多く載せている。「テロとの戦い」は、本当に「悪との戦い」であり「正義」なのかという疑問を抱かせてくれる情報に満ちている。権力の側は、むしろ「テロ」を利用するために、それを見過ごしている・あるいは誘発していると受け取った方が現実を正確に把握することになるのではないかとも思える。

「テロ行為」は、大衆的な支持を失い、「テロ行為」以上の残虐な侵略行為を見えなくさせて、それを容認する雰囲気を多数派に持たせる効果がある。感情の爆発としての復讐心がどうしようもないものであっても、政治的に判断すれば、「テロ行為」は全く逆の効果しか生まない。それは、侵略する国家・虐殺する国家の方にこそ有利に働く。そのような国家が声高に「テロとの戦い」を叫んでも、それは自分に都合よく利用するための戦いに過ぎないだろうとしか思えない。

国家権力の側にすり寄る気のない人間にとっては、本気で民衆の保護を考えていないような「テロ対策」は疑ってかかった方がいい。そして、すり寄る気はないにもかかわらず、結果的に国家のウソを補強する立場になっている善意の人々の目を覚まさせる努力をしなければならない。すぐれたジャーナリストは、直接の行動でその努力をするけれど、僕のような人間は、そのすぐれた仕事を少しでも多くの人々に伝えることでその努力をしたいと思う。

学校人質占拠事件に関しては、その背景としてのチェチェンの現実が重要だと言うことで日記に書いてきたが、この事件そのものに対する判断で、「チェチェン人が本当に真犯人なのか」という林克明さん(ジャーナリスト)の記事は、権力の側こそが「テロ」の本当の原因をつくっているという疑いに一つの回答を与えてくれる報道だという感じがする。

林さんは、この記事の冒頭で、

「「対テロ戦争」を声高に叫ぶものこそ、真のテロ推進者かもしれない。このような疑問を持って事態を冷静に見る必要があるのではないか。」

ということを書いている。僕が感じていることと全く同じことを表現していることが嬉しかった。その疑問を持って、学校人質占拠事件を見ると、次のような事実が浮かび上がってくる。

「ロンドンにいるチェチェン独立派の文化出版情報相・ザカーエフ氏がアウシェフ氏(前イングーシ共和国大統領)と電話で話した際、犯人の中にチェチェン人がいなかった、と話したことをBBCとのインタビューで明らかにした。」

アウシェフ氏は、チェチェンからの難民を受け入れていた人道的な大統領だったと記憶しているが、「前」となっているのは、ロシア中央から送られてきた傀儡の大統領にその座を奪われたからだと言われている。犯人たちと交渉して、人質26人を解放させたのは、アウシェフ氏がチェチェン人に信頼されていることを示しているのだと思う。そのアウシェフ氏が、犯人の中にはチェチェン人がいなかったと語っている。それでは、この事件の政治的意味というのはどういうものなのだろうか。

林さんは、この事件はロシア政府の情報操作がなされていると疑っている。僕も、考えてみると疑いを抱くような所はたくさんあるのを感じる。「+++ PPFV BLOG +++」というブログで、PPFVさんは、

「武装勢力の残虐性のみが際立つニュースです。しかし武装勢力側がなぜこのような映像を残したのか目的がわかりません。
死を覚悟していた(と言われています)という状況で、映像を残す理由がわかりません。
このように使われることは判っていたでしょうに・・・。」

という文章を記している。全く同感だ。その他にも疑問を感じるところを数多く指摘していて、そのいずれもが納得できることだ。このように報道に疑問を感じると言うことは、単純に「テロリスト」の残酷さを理解しただけで済ませてはいけないと強く感じてしまう。

林さんは、この事件の背景になっているチェチェンでのひどい弾圧についても語っている。そして、その弾圧が、「軍規の乱れた一部軍人によって引き起こされるわけではなく、日常化していること。そして、軍人が何をしても、すべてが許されること」を指摘している。これこそが「ロシアによる国家テロ」だと断じている。

そして、林さんの解釈として、このような弾圧の要因としてもっとも重いものを、「ロシアがファシズム化していることだ」と見ている。経済的に石油利権が欲しいと言うことがあるかもしれないが、そのことだけでは、これほど残虐な弾圧が起こることが整合的に説明しきれないと感じている。むしろ、ナチスドイツと同じようなファシズムがロシアに蔓延し、ファシズムが基礎になって、チェチェン民族の抹殺と言うことまでもが容認されているのではないかと解釈しているのである。

確かに世の中にはひどい人間もいることは確かだ。しかし、例外なくほとんどすべてのロシア兵がならず者のように見えるというのは、彼らがファシズムという考えの中にいると解釈した方が整合性があるような感じがする。イラクの米兵たちについても同様なのではないだろうか。ファシズムの中にいる兵士たちは、単なる鬱憤晴らしのために民衆を虐殺する。アンナさんの「チェチェンやめられない戦争」には、そういう事実が溢れている。

さて、今週の「週刊金曜日」はブッシュ政権の特集だが、それを批判したマイケル・ムーアの「華氏911」に関して、ドキュメンタリー作家の森達也さんがちょっと厳しい批評をインタビューという形で語っている。森さんは、この映画をその複雑な存在のすべての面から検討するというのではなく、「ドキュメンタリー作品」としての評価を語っている。

その「ドキュメンタリー作品」としての評価から言えば、この作品は森さんから見ると「ただの情報」にしか見えないようだ。誤解されると困るのだが、「戦争に反対するそのメッセージに対して異論はありません」と森さんは語っている。これは、あくまでも「ドキュメンタリー作品」として見た場合にどうかということなのだ。

森さんの批判のポイントは次のようなものだ。

「この映画は直接話法で語られていますね。ドキュメンタリーは直接的なものを撮るだけに、メッセージを内側に込めたいというのが僕の考えです。つまりメタファー(隠喩)です。ドキュメンタリーはノールールだからいろいろあっていいと思うし、規定しようとも思わない。でも情報をそのまま提示したのではメディアと同じになってしまう。」

これは、森さんのドキュメンタリー論であるから、もちろんそれに賛成しない人もいるだろう。僕は、この考えにはおおむね賛成だ。メタファーを感じられないようなものは、やはり芸術作品としてのドキュメンタリーとしては、深みがないという評価をされても仕方がないだろうと思う。

しかし、マイケル・ムーアは、ドキュメンタリーとしては低い評価になろうとも、このような作り方を「運動のため」にあえてしたのだと僕は解釈している。マイケル・ムーアほどの人間が、一生懸命駄作をつくったとは思えないのだ。時代の進歩から取り残された巨匠が、一生懸命駄作をつくってしまうことはあるかもしれないが、マイケル・ムーアは、むしろ時代の先端を行くセンスを持っている人なのだから、そのようなことがあるとは思えない。

むしろ、あえてこのような作り方をしたということに、たとえ表層的ではあっても理解しやすい映画の方が、運動論的には効果が高いのだという仮説を持っていたのではないだろうかと僕は考える。僕は、その仮説が大統領選でどのような結果に結びつくかということに注目したいと思う。

ムーアの思惑通りに、ブッシュ再生阻止に大きな力があれば、運動論的には、芸術としてはすぐれていようとも難しい映画よりも、芸術論的には低い評価でもわかりやすい映画の方がいいのだということが証明されるのかもしれない。

「華氏911」は、カンヌでパルム・ドールをとったのだから、芸術としてもすぐれているのだと評価する人もいるかもしれない。しかし、評価というのは、観点が違えば全く違うものが出てくるのが普通だ。森さんの観点からいえば、ドキュメンタリーとしては評価できないというだけのことなのだと思う。別の観点からいえば、それは高く評価できても少しも不思議ではない。

僕は、森さんが語るように「「華氏911」はただの情報。だからこの映画がドキュメンタリーと思われるのは悔しい」という気持ちに共感してしまう。だから、僕はこの映画をドキュメンタリーだとは思わずに、運動の一つとしてとらえて、その結果から評価をしようと思っている。

この映画が表層的で、メタファーがないと感じられるのは、その戦争の描き方にもあるということを森さんは語っている。この映画は、ブッシュの悪意によって戦争が起こされたという表現に森さんには見えるようだ。これは、ブッシュが使う論理(テロリストは悪だ、というもの)の裏返しで、その単純さは同じだという批判だ。この批判は、森さんだけでなく、あちこちで見受ける。だから、僕は、この表現もマイケル・ムーアがあえてしたのだと思う。その方が、果たして運動として効果を持つかどうか、この表現の評価も、僕はその観点から評価したい。森さんのように、ドキュメンタリーという観点で見れば、これは低い評価しかできないと思うが。

森さんは、「戦争が起こる構造には必ず正義や善意が働いています」と語っている。これは、僕の好きな板倉さんが昔から言っていることと同じで、僕はこのことに共感する。善意があるから、それを止めることが難しく、善意による残酷さは、良心の痛みを麻痺させてしまうのだと思う。

僕は、ブッシュの戦争は間違っていると思うので、アメリカの大統領選で、民意がそのような方向を取り、ブッシュ再生阻止がされるのを望んでいる。マイケル・ムーアと同じだ。しかし、運動論的には、マイケル・ムーアの方向にやや疑問も感じるところがある。マイケル・ムーアは、ドキュメンタリーとしての完成度の高さよりも、より直接的に理解できるようなわかりやすさを選んだように思うのだが、それは運動論的に見た時に失敗ではないかという疑問が消えない。

わかりやすさよりも、作品としてのすぐれた面で訴える方が、運動としても有効なのではないかという思いが消えないからだ。マイケル・ムーアだったら、もっとすぐれた作品が作れたはずだと思う。それが、なぜあの程度でとどめてしまったのだろうかという思いがある。いずれにしても、大統領選の結果で、運動論的な観点での評価をもう一度考えてみたいと思う。





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最終更新日  2004.09.11 09:51:32
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