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真理を求めて

2005.05.01
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内田さんのこの本は、まえがきだけで長い感想が書ける本なのだが、特にいろいろな連想が浮かんでくるのは、「「良い入門書」は、「私たちが知らないこと」から出発します」と書かれている言葉からだ。内田さんが語る、この「良い入門書」の条件は、建設的な対話のための条件の一つでもあるのではないかと感じたので、この言葉からいろいろなことが浮かんできた。

内田さんが、「私たちが知らないこと」から出発することが、何故「良い入門書」になると考えているかは、それが「根源的な問い」につながっていると見ているような気がする。「私たちが知らないこと」というのは、読者が知らないだけでなく、著者でさえもまだ本当には答を発見していない、「誰も答を知らない問い」かも知れない。

その、知らない事柄というのは、知っているつもりになっているだけのものかも知れない。そして、我々はそれを知っているつもりになっているだけなのだというのを、「良い入門書」は、我々に分かるように示してくれるのかも知れない。とにかく、「良い入門書」は、「私たちは何を知らないのか」を、ある意味では衝撃的に教えてくれる。

入門書ではないけれど、先週の<マル激トーク・オン・デマンド>で、憲法について根源的な問いを語っていたが、それは、我々は憲法について何を知らなかったのかを教えてくれたように感じた。「良い入門書」と同じものを、先週の<マル激トーク・オン・デマンド>には感じた。

さて、「何を知らないのか」という問いは、「私たちは何故そのことを知らないままで今日まで済ませてこられたのか」を問うことにつながってくると、内田さんは語っている。この何故は内田さんによる解答がある。


「何故、私たちはあることを「知らない」のでしょう?何故今日までそれを「知らずに」来たのでしょう。単に面倒くさかっただけなのでしょうか?
 それは違います。私たちがあることを知らない理由はたいていの場合一つしかありません。「知りたくない」からです。
 より厳密に言えば「自分があることを「知りたくない」と思っていることを知りたくない」からです。
 無知というのは単なる知識の欠如ではありません。「知らずにいたい」というひたむきな努力の成果です。無知は怠惰の結果ではなく、勤勉の結果なのです。」


この文章は誤読される可能性が高いのではないかと思うが、僕は次のように解釈した。「知らない」ということは、あくまでも知識の問題として内田さんは語っているのだと思った。つまり、「知らない」ということの中に「理解していない」あるいは「理解出来ない」という問題を含めていないというふうに僕は受け取った。

知ろうと思えば知ることが出来るのに、それを知ることがなかった事柄について、「知りたくない」という深層心理の存在を指摘しているのだと僕は解釈した。これは、この本の本文の中で語っている<構造的無知>という言葉で説明されている意味での「知らない」であり「無知」なのだと思った。

「理解出来ない」という問題は、間違っているという<誤謬>の問題と深く関わってくる。だから、それは「知りたくない」という一つの理由だけでは説明しきれないものもあるのじゃないかと思えるが、理解は出来るし、知ろうと思えば知ることも出来るのに、それでもなおかつ知らないというのは、内田さんが語るようにそれを「知りたくない」という気持ちが働いているからだと解釈せざるを得ない、という言い方は僕にはとても説得的に感じた。

憲法について、それが国家権力の暴走を国民の側が規制するために作ったものだという知識は、宮台氏に教えられるまで僕は知らなかった。憲法というものを、現実に存在する日本国憲法というものの具体的なイメージを抽象して得られるようなイメージで捉えていた。経験主義的な理解と言おうか。普遍的真理に近いものを語らないと憲法ではないというようなイメージもあったように感じる。

それは、宮台氏に教えられる以前に教えられても、僕は理解可能だったと思う。残念なことに、それを丁寧に教えてくれる人がいなかったから、今まで無知なままで来てしまったが、その知識を求めようという意欲もこれまでは生まれてこなかった。これは、「知りたくない」という無意識の努力がどこかにあったのかも知れない。

宮台氏が語る憲法概念は、かなりプラグマティックなものに見える。憲法そのものに大きな価値が存在するという見方ではなく、国民意識や国家権力のその時の意思など、現実の条件によって憲法の意味が変わり価値も変わるという見方のように見える。日本国憲法の9条に大きな価値を見出し、それがあるからこそ平和が守られてきたと考え、今後もそれを守ることに大きな価値があるという先入観があると、なかなか受け入れがたい概念でもある。

憲法9条そのものに内在する価値があると考えていると、論理的にはそれを否定しかねない、憲法9条を相対化するような知識は、無意識のうちに避けてきたとも言えるかも知れない。しかし、憲法9条を相対化して見ることが出来るようになってくると、「知りたくない」という意識が薄れてきて、しかも大きな信頼感を抱いている宮台氏が語っていることでもあり、その知識の意味を理解出来るような条件が自分の中に整ってきたのを感じる。

憲法9条を相対化したからと言って、その価値を低めたわけではない。宮台氏も語っていたが、日本が戦争に巻き込まれなかったのは、憲法9条の、特に第2項が存在したからだと言うことは明らかだろうと言うことは僕も賛同する。しかし、それはいつの時代にも同じように作用するものではなく、時代の条件が、憲法9条の第2項の価値を高めたのだという判断をしたいと思う。それは、絶対的な価値を持っているのではないが、相対的な視点では、平和を守るという点で非常に大きな貢献をしてきたのだと思う。

内田さんが語る次の言葉も、僕は全く共感することだ。


「知的探求は(それが本質的なものであろうとするならば)、常に「私は何を知っているか」ではなく、「私は何を知らないか」を起点に開始されます。そして、その「答えられない問い」、時間とは何か、死とは何か、性とは何か、共同体とは何か、貨幣とは何か、記号とは何か、交換とは何か、欲望とは何か……といった一連の問いこそ、私たちすべてに等しく分かち合われた根源的に人間的な問いなのです。
 入門書が提供しうる最良の知的サービスとは、「答えることの出来ない問い」、「一般解のない問い」を示し、それを読者一人一人が、自分自身の問題として、自らの身に引き受け、ゆっくりと噛みしめることが出来るように差し出すことだと私は思っています。」


このような語りかけをしてくれる入門書は、本であるから著者が直接答えてくれるわけではないが、読者の知的探求が常に著者への問いかけとして表れてくる。そして、その問いかけに、著者が答えてくれているような気にさせてくれる。読者が独自に抱えている問題を解くという応用問題の答の方向を著者が示唆してくれるように感じるのだ。僕は、三浦つとむさんの著書に、そのような感じを抱くことが多かったが、内田さんの本にもそのような感想を持つ。

建設的な対話というものも、このような構造を持っているのではないかという気がする。ある人の問題提起を受け止めた人が、それを答が分かり切っている問題として受け取るのではなく、提出した人も、それを受け取った自分自身も分かっていないこと、知らないこととして受け止めることから建設的な対話が始まるような気がする。お互いに、よく分からないところがあるから、対話することによって理解を深めようと言う姿勢を持つところから建設的な対話が始まるような気がする。

これが、そのような知らないこと・分からないこととしての受け止めではなく、分かり切ったこととして受け止めて、自分が正しく、相手が間違っているという意識しか持たないとしたら、それは果たして対話する必要があるだろうか。お互いに分かっていないこととして受け止められない人間は、おそらく問題提起をしている人間の語ることを誤読しているのだろうと思う。

小倉秀夫さんという弁護士の方の「小倉秀夫の「IT法のTop Front」」というブログのコメントを見ていると、小倉さんが語ることを頭から間違っていると断定しているかのようなものが目に付く。これなどは、コメントする本人にとっては「分かり切っている」と思っていることから始めているのだろうが、その「分かり切っている」を共有出来ない人間から見ると、問題提起を正しく受け止めていない誤読にしか見えない。

このような断定的なコメントを書く人間は、それによってどのような対話をしたいのかという、その気持ちが僕には全く想像出来ない。僕には、対話など望んでいないようにしか見えないのだ。分かり切っている事から始める対話は、知的探求の期待は出来ない。せいぜい説教を垂れているというふうに感じるだけだろう。しかも、その説教は、分からないこと・知らないことから始めるのではなく、その逆とも言えるものだ。

内田さんは、「良い入門書」の反対の存在として「ろくでもない入門書」について次のように書いている。


「良い入門書は「私たちが知らないこと」から出発して、「専門家が言いそうもないこと」を拾い集めながら進むという不思議な行程をたどります。(この定義を逆にすれば「ろくでもない入門書」というものがどんなものかも分かりますね。「素人が誰でも知っていること」から出発して、「専門家なら誰でも言いそうなこと」を平たくリライトして終わりというシロモノです。私は今そのような入門書の話をしているのではありません。)」


これは、ブログでの「ろくでもないコメント」というものにも通じる特徴のような気がする。分かり切っているという態度が見え見えの、説教くさいコメントは、「「素人が誰でも知っていること」から出発して、「専門家なら誰でも言いそうなこと」を平たくリライトして終わりというシロモノ」のように見える。ブログ主は、そんなことを問題にしているんじゃないだろう、と思わず言いたくなるようなコメントもよく見かける。

僕が第三者的に感じるのだから、ブログ主はもっとそういう感想を抱いているだろう。そのような関係を作って、その上で建設的な対話をしようと言うことがまず無理な話だと思う。こういうコメントを書く人間は、建設的な対話をする気がないのだろうか。そうであるなら、コメントを書く動機というのはどこにあるのだろうか。その動機が、知的探求というものにあるとはとうてい思えない。しかし、<構造的無知>というものがあるので、その本当の動機を本人は「知りたくない」のかも知れないな。





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最終更新日  2005.05.02 00:19:11
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