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真理を求めて

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2006.02.17
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耐震強度偽装問題のマスコミ報道に、何かいやなものを感じるのは、それが事実とその解釈を混同しているように僕が感じているからだろうという気がした。この問題で本当に確かな事実と呼べるものには何があるだろうか。

まず、姉歯元建築士がデータの改ざんをしたというのは、本人がそれを認めているのだから「データの改ざん」というのは事実であるだろう。そして、それが法律が定めていた基準を満たすためのデータ操作であるというのも事実だろう。ここから得られる帰結は、姉歯元建築士が関係したマンションやホテルは、安全基準をクリアしたというのは嘘だったということだ。ここまでは事実として受け取ることが出来るだろう。

しかし、この事実が何を意味するかという「意味」の領域に踏み込むと、これが「事実」なのか「解釈」なのかは判断が難しくなる。「事実」だと判断すると言うことは、それが語る意味が「本当だ」と信じることになる。しかしそれはまだ「解釈」の段階だと言うことになれば、まだ他の解釈も許されるので、その解釈が必ずしも正しいとは限らないという態度になる。

耐震強度偽装が発覚したマンションやホテルは「震度5強の地震で倒壊の恐れがある」と言われている。これは「事実」を語っているのか、それとも「耐震強度基準」というものを「解釈」したものに過ぎないのか。僕は、これは解釈に過ぎないものだと感じているが、この表現は微妙な手直しをして「事実」らしく装っているずるい表現だと思う。

「恐れがある」という表現は、言葉を換えれば「分からない」と言うことと同じ意味になると思う。「震度5強の地震で倒壊するかどうかは分からない」と言えばその意味がハッキリする。「倒壊しない」とは言い切れないので「恐れがある」という言い方をするのだ。「分からない」と言えば、これは「事実」だなと僕でも受け取れるのだが、「恐れがある」という言い方をすれば、「分からないけれど倒壊する可能性の方を多く考えている」という意味になってしまう。

倒壊する可能性は0(ゼロ)ではないのだから、「恐れがある」という言い方は間違いではないだろう。意味的には正しいと言うことでは、この表現は真理であり「事実」だと言えないこともない。しかし、この表現はやはりずるい表現だ。それを感じるから、僕はこの報道にいやな感じを受けるのだろう。

宮台氏は、マスコミというのは大衆の不安を煽って、それを種に飯を食っているという言い方をしていた。この報道を見ていると、その指摘の正しさを良く感じる。まさに、宮台氏は深い「事実」を語っていたなと感じる。「恐れがある」という言い方は、まさに不安を煽るための表現であり、それによってマスコミのニュースを人々に売るためのものにしているのを感じる。

それでは、このずるい「事実」は、どうしたら真っ当な「事実」になるのか。それは、マル激にゲストで出ていた多田さんが語った視点でこれ以前の「事実」を解釈することから出てくるのではないかと思う。

多田さんは、建設省が与える安全基準などは、それをクリアしたからと言って安全が保障されるものではない、ということを「事実」として出発点にする。これは、専門家でなければその正しさが本当に分かるものではないから、専門家としての多田さんを信頼するかどうかで、このことを「事実」だと信じるかどうかが決まってくる。

多田さんが、安全が保障されないというのは、建築の場合は個別の要素が多すぎて、一律に安全性を考えることが出来ないので、同じ基準で比較出来ないという前提からそのことを導いている。僕も、その前提にかなりの妥当性を感じるし、論理的な帰結として、その前提を認めればそういう結論が出てくるだろうということに整合性も感じる。

地震が起きたときに、建物にどのような力がかかるかは、地震の揺れ方によっても違うし、地盤が固いか軟らかいかによっても違うらしい。また、建物の基礎がどの程度地中に埋まっているかでも違うと言うことだ。耐震強度を計算するプログラムで、基準値をクリアしているからといって地震が来たときにその建物が壊れないとは限らないし、基準値をクリアしていないからと言って建物が壊れるとも限らないと言うことだ。どちらになるかは、地震になってみないと分からないと言う面が強いのだそうだ。

だから、事実として正確な表現は、どうなるかは分からないと語るのが正しい。安全基準をクリアしていないからと言って、すぐに使用禁止にして立ち退きをさせたり取り壊したりするのは、デリカシーを欠いた行為だと多田さんは批判していた。

しかし「分からない」と言われても、一度「恐れがある」と言われたら、ホテルとしては客足は減るだろうから商売として成り立たなくなるだろう。閉鎖して取り壊すしか道がないようにも思われる。これは一種の風評被害にはならないのだろうか。

多田さんによれば、耐震構造を十分持っていない建物であっても、免震構造を持たせれば、地震の時に揺れそのものが建物に影響を与えなくなるので壊れる心配はなくなるという。しかも、この免震構造は、建物にあとから付け加えることが出来るそうだ。このことが事実だったら、耐震強度が不足している建物は、免震構造を与えることで安全性を回復出来ると言うことを「事実」として報道すべきだと思うのだが、これは「事実」として一般的に認められていないのだろうか。

僕はすっかり多田さんを信頼しているので、この免震構造の話は真理である、つまり「事実」だと思っている。マンションを取り壊して立て直すよりは、おそらく免震構造を与える工事の方がコストは安いのではないかと思われる。だから、「恐れがある」というのが気になる人たちは、ぜひ免震工事の方を考えればいいと思うのだが、免震工事に対して報道されたニュースを見たことがない。

もし免震工事が効果的だと言うことが、今回の事件で一般に広まってしまったら、マンションやホテルのような大きな建物の建築はほとんどすべて免震工事になってしまうだろう。そうすれば、耐震工事によって利権を持っていた層は大きな痛手を被るに違いない。そういう資本の論理が働いて免震工事のことが報道されていないのではないかと僕は解釈している。

多田さんは、耐震構造の計算によって安全を確保することは原理的に不可能だと語っていた。僕は、これも「事実」だと思う。これは論理的な考察の結果得られる「事実」すなわち一般法則的な「真理」だろうと思う。ここから得られる帰結は、そもそも行政の側が安全基準を作って、安全性にお墨付きを与えるという発想が間違っているのだという「事実」だ。

そして、このお墨付きを与えるという発想は、行政の側が建築というものを支配しようという利権を独占しようとした結果だという帰結につながる。この帰結が論理的に整合性があるなら、これもやはり「事実」だと捉えることが出来るだろう。耐震強度偽装問題の「事実」というのは、この行政の支配というものが間違いだったという帰結こそが本質的な「事実」なのではないだろうか。

多田さんは、安全基準として最低の線を定めたら、その最低線が実質的に最高線になってしまうと語っていた。最低そこまでをクリアしていればいいという基準があったときに、誰がその基準を超えてまでいいものを作るだろうかと言うことだ。基準を超えたいいものは当然コストが高くつく。商売としての建設物の販売業にとって、コストが下げられる最低線があるのに、それ以上のものを作る動機はなくなってしまうというのは、論理的な帰結としては納得出来るものだ。

安全保障が出来ない建設については、業界基準を作っておいて、あとは健全な競争で基準以上のものを目指す方向を作るべきだと多田さんは言う。これも納得出来ることだ。他の業者よりも高くついても、安全性も高くなるのだと言うことになれば、その点を売り物にして、いいものが欲しいという消費者に売り込むことが出来る。安ければいいと言う競争をしなくてもすむ。

耐震強度の基準を作っておいて、それをクリアすれば安全を保障するというシステムそのものがそもそも間違っているという指摘は、宮台氏も言っていたがまさに目から鱗が落ちるという指摘だった。これこそが本当の「事実」だと思うと、そこから得られる解釈もかなり違うものが出てくるだろう。

多田さんは、立ち退きをせざるを得なくなったマンションの購入者は、善良な被害者だと語っていた。行政がお墨付きを与えるからこそ、とんでもないものでも信じて購入してしまったという被害者として捉えられると言うことだ。だから、この被害に対しては行政が責任があることは当然で、何らかの救済をするのが当然だと僕も思う。個人の商行為だと言うことは、行政の責任を帳消しにするような理由にはならないと思う。

また、多田さんは竹中氏の金融政策の批判もしていたが、ほとんど金利0(ゼロ)の金融政策によって、耐震強度の偽装をするような会社に融資をして建物を建てさせるという銀行の責任も問われるべきなのかなとも感じる。銀行に責任があると考えれば、購入者の銀行ローンも、そもそもの原因を銀行が作ったとも考えられるので、ある程度のローン債権を放棄して、被害者の救済を行ったとしても当然ではないかとも考えられる。それを、購入者の自己責任と言うことで、ローンはそのままだと言うことになれば、やはり被害者は救済されないのではないか。

大衆の一人としての自分がいつこのような事件の被害者になるか分からないと考えたら、一般市民はもっと行政や銀行の責任を追及してもいいのではないだろうか。将来自分が被害者になったときもちゃんと救済してもらえるように、今現在の被害者がちゃんと救済されることを求めるべきなのではないだろうか。マスコミはこのような方向での報道はまったくしない。マスコミがこのような方向の知識を少しでも知らせれば、大衆的な人気も出るはずなのに、人気取りが第一のマスコミがなぜかこのような方向の報道をしない。だから僕はマスコミを信用しない。人気取りという点でもマスコミは首尾一貫していないのだ。結局は、既存の利権を守るためのポピュリズム的な報道しかしないのがマスコミなのだと言うことを「事実」として受け取らなければならないのではないかと思う。





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最終更新日  2006.02.17 09:43:18
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