生徒の話。~ちい~
今日は、「ちい」の話を少ししたいと思います。前回の記事に出てきたチイと書いた卒業生と同じ子です。私が彼女と出会ったのは、入社した年。ちいは当時小2でした。4人姉妹で、町内にたくさんの親戚がいて大勢に囲まれているのが当たり前という環境で育った私が就職のため誰一人の知り合いもいない大阪に出てきて、一人暮らしをし始めたばかりの頃。配属先には当時女性は私一人、中学受験という特殊な世界の勉強にも必死で、夜眠り方がわからなくなったりもしました。そうかと思えば化粧も洋服もそのままでベッドに倒れこんだり、情けないことに入社10日ほどで急性胃腸炎で1週間休んでしまいました。医師からは「ストレスかなー。もっと気楽にいきましょう。」と言われたものの「授業は勝負!最初が肝心!」という研修を受けていましたし、無知だったため中学受験させる親というものに過剰なまでにプレッシャーを感じていました。そんな状態のときに小2のちいのクラスを担当。このクラス、生徒は最初ちい一人でした。にこにこと人なつっこい ちいの笑顔には癒されました。いちばん楽しみな授業でした。国語が得意。特に物語。「先生大好き!ちいがんばる!」口癖のように。そう言ってくれる度に私は充電されていく感じでした。ある日、授業開始時間になってもちいが現れません。どうしたのかな?と思っていると一本の電話。「先生、ちいです。電車乗り越ししてしまって、次の駅に今います。 10分ぐらい遅れます。」と本人から、公衆電話での連絡でした。ちいは、バスと電車を乗り継いで教室まで一人で来ていたんです。いやー、参りました。こんな小さい子が、自分でバスと電車乗り継いで教室に来ている。失敗したら自分で電話かけてきて。私、いい大人やのに毎日弱音吐いて、情けない・・・。クラスの人数が増えていきます。いつもちいから話しかけます。そして男子も女子も成績もなんにも関係なく、友達になっていく。天然ボケというかどんくさいというか、愛嬌たっぷりの彼女の話は私達大人も爆笑。お母さんとお話させてもらっても、なんというか、人としての器というかそういう大きいものさしで考えておられるのを感じました。4年生になるとき、お家の都合でS教室に移ることになりました。ですが、集中講座や日曜特進、合宿でちいの担当をすることも多く、彼女はずっと変わらず身近な生徒でした。街中で「先生ー!」と遠くから呼びかけられたこともありました。振り返ると満面の笑み。授業の合間に一人で入ったラーメン屋さんに、偶然ちいの家族のみなさんがいて、席をごいっしょさせてもらったこともありました。家族と離れていた私にはそれもすごくうれしいものでした。最後まで算数に苦労しましたが、彼女は合格した学校でめきめきと力をつけ、数学で1位を取るまでに。勉強だけじゃなく、ハードな運動部の中でも仲間を引っ張る存在。ちいの卒業後、小2の弟くんも1年間担当しました。高校生になっても、弟の塾の授業の送り迎えについてきて、顔を見せてくれ、いろんな報告を聞かせてくれていました。出産のため私は退職したので、それからは会えなかったのですが・・・。高校2年生。もうすぐ誕生日で17歳。そんなちいが、突然、本当に突然事故でこの世を去りました。突然の連絡に、これは悪い夢の途中だと何度も思いました。眠るちいを目の前にしても信じられず。笑顔はたくさん浮かんできます。はっきり思い出せます。この悲しい状況と彼女の笑顔の残像がちっともつながりません。親御さんの悲しみは、想像するだけで体が震えます。言葉は出てきませんでした。会場に入りきれない大勢の人が集まり、きれいな花々に囲まれて、彼女の好きなアーティストの曲の中、たくさんの思い出の品や写真を見ながら、お別れをしました。泣き崩れるクラスメートや部活の仲間達だけじゃなく、先生、ちいが学校でもたくさんの人に愛されていたのを感じます。お別れの場面に、塾生も集まって来ていました。教室がちがう生徒もクラスがちがった生徒もたくさんいました。たくさんの講師とも再会しました。ちいをよく知る保護者の方とも話しをしました。久しぶりの再会ですね、あまりに悲しい理由ですね・・・とみんなで泣きました。何人もの生徒が、ちいとのエピソードを教えてくれました。式のときにちいの最近の写真を1枚いただいきました。絵を描きたいというとお母さんも承諾してくださったので、できあがったら、そのエピソードもいっしょにお伝えしたいと思っています。書こうか迷いましたが、この件に触れずに塾講師としてPCに向かうのはどうしても不自然で。彼女の生きた16年はすごく素敵なものであったことを記しておきたいこともあって。乱文ご容赦ください。■生徒達の中学受験・合格物語と不合格物語はこちら→☆中学受験・塾物語。