大阪・加賀谷新田界隈散策
大阪・加賀谷新田界隈散策加賀谷新田散策 この周辺の地域は、延享2年(1745年)、加賀屋甚兵衛によって干拓されました。この埋立ては、その後数回にわけて北へ北へと拡張されていきます。これらの民間資力による開拓事業は、幕府の崩壊で終りますが、その間の開拓総面積は、今日の大阪市域のほぼ3分の1にもあたるものです 加賀谷新田会所をはじめ高崎神社、祐貞寺、高砂神社などを「住之江のまち案内ボランティア」の案内によって見学してきました。新田会所とは 大阪の歴史的発展を語る上で、江戸時代に行われた大和川の付け替えとその後の新田開発は非常に大きな役割を果たしています。たびたび氾濫を起こしていた大和川は、宝永元年(1704年)に流路をほぼまっすぐ西に向ける形で付け替えられました。この大事業は、今米村(現東大阪市)の庄屋・中甚兵衛らの嘆願により、幕府による直轄事業として、当初の見込みよりもはるかに短い約8カ月の期間で、延べ2百数十万人を動員して完成させました。 このことを契機に、旧大和川の周辺や海岸部、内陸の浅瀬などを農地に変える新田開発が盛んに行われました。その際に新田開発の拠点となり、のちに小作人からの年貢米徴収・貯蔵や新田の堤防・水路などの維持管理業務、役人への応対などを行う場として「会所(かいしょ)」という管理事務所が設けられました。加賀谷新田会所跡の概要 会所とは、開発した新田を管理する所で、宗門人別帳の作成、年貢の取り立て、新田内の水路、樋門、道路等の管理補修等を行いました。また、新田の開発状況や米の検査などで視察に来る代官の対応をする所でもありました。 明治の頃までは加賀谷甚兵衛の子孫によって保存されていましたが、その後、持ち主が変わり、庭園が荒廃した時期もあったようです。しかし、昭和初期に武田家譲り受けてからは庭園もよみがえり、人々が来訪する場として大いににぎわったようです。面積 4,822平方メートル長屋門、冠木門、枯山水の前庭、書院、茶室「鳳鳴亭」、居宅、土蔵、築山林泉回遊式庭園、四阿「明霞亭」、待屋「偶然亭」などで構成。茶室「鳳鳴亭」数寄屋風茶室「鳳鳴亭」は、建築部材の墨書から文化12(1815)年頃と考えられ、舞台造りと呼ばれる高床式の柱組みで、まるで飛び立とうとする鳳凰のように見えることがその名の由来です。茶室には大徳寺418代貫主・松月宙寶自筆の額がかかっています。 欄間、ガラス戸、網代組の落天井など、趣のある意匠が凝らされています。 茶室「鳳鳴亭」と心字池 庭園 心字池を中心とした小堀遠州風の築山林回遊式庭園。 中央の池はかって、井路(水路)を経て十三間(堀)川へとつながり、屋敷の人たちは船に乗り、市中の芝居小屋まで遊びに出かけたそうです。築山から茶室「鳳鳴亭」築山・四阿「明霞亭」 現在は平屋の四阿として再建されていますが、かっては2間四方高殿造り茶室が建っていました。広大な新田を一望し、西は大阪湾からはるか淡路島まで、東は生駒、金剛の山系まで望めることができたそうです。昭和20年6月の空襲でかっての「明霞亭」は焼け、老松の階段と礎石だけが残り、庭園を一望できます。茶室「明霞亭」手水鉢入って右が土蔵土蔵冠木門 「古見堂(こけんどう)」と書かれた額が掲げられています。この額は、相国寺(京都市)の有馬頼低が書いたものです。冠木門から玄関玄関から冠木門炊事場炊事場に井戸が書院 宝暦4(1764)年の建築で、当時の建物がそのももまま残されています。入口に「祥鐘福集」の額がかけられています。玄関、六畳の次の間八畳の座敷で構成されています。書院 金地に水墨山水の襖絵は雪舟4代目雲谷等益(うんこくとうえき)の作襖絵と額 大正3(1914)年に学者・西村天因(にしむらてんしゅう)が、、会所を「愉園」(ゆえん)と命名、中国の文人・羅振玉(らしんぎょく)が書いた額がかかっています。待屋「偶然亭」 茶室 長屋門 火災で焼失し、再現された長屋門。屋根は,起り屋根(むくりやね)といい、丸みをおびた形状。加賀谷新田会所跡高崎神社 宝暦5(1755)年加賀谷甚兵衛が大和川河口に祀り、天保8(1837)年に三代目甚兵衛によって、現在地に移築。 祐貞寺 加賀谷甚兵衛が開発した北島新田を購入した堺の商人・小山屋久兵衛が建てた。 明治2(1874)年にはこの寺で北島小学校が開校、歌人与謝野鉄幹がここで学んだ。防空壕高砂神社 元文2(1737)年に、北島新田開墾に際して加賀谷甚兵衛により創建大和川