「親鸞 完結編(下)」あの夜から40年経った
「親鸞 完結編(下)」五木寛之 講談社文庫「親鸞さまは、わたしをからかっておられるのですか」唯円は親鸞をみつめた。親鸞は首をふった。「いや、からかってなどはいない。そなたが、わたしのいうことならなんでもしたがう、と自信たっぷりに答えたからたずねている。もう一度きく。わたしがそうせよ、というたら、そなた、人を千人殺せるか」唯円は力なく首をふった。「できませぬ」「それは、そなたが善人だからか。人を千人殺すほどの悪人ではないからか」唯円は黙っていた。親鸞は言葉をつづけた。「人ひとりも殺せぬ、というのは、そなたが善き心の持ち主だからではない。人は自分の思うままにふるまうことはできぬのだ。人はみずからの計らいをこえた大きな力によって左右されることがある。こうしようと願ってそうできるとか、ああはしまいと決めて避けられるとかいうものではない。絶対にこれだけはやめようと誓いつつも、そこへはいりこむこともある。だから、善人、悪人などと人を簡単に分けて考えてはならぬ。そなたとて、人を殺すなど決してしまいと思っていても、本当はわからないのだ。いつ人殺しをするかもしれない。それを業のせいである、という。しかし、業とは、世間でいう宿命ではない。結果には必ず原因がある、ということだ。人は決してわが計らうままに生きられない。その願うとおりにならないことを、業をせおっているというのだよ。そなたも、わたしも、大きな業をせおって生きておる。そのおそれと不安のなかにさしてくる光を、他力、という。救われる、というのは、そういうことではないか。わたしは、そう信じているのだ」唯円はだまって親鸞の言葉をきいていた。あたりの闇が、いっそう深くなった。(49-50p)この2人の問答が、実質この長編「親鸞」6冊のクライマックスだったのかもしれない。しかし物語はこのあと、善鸞義絶事件、竜大山遵念寺での竜夫人、親鸞と覚蓮坊との対決、そして親鸞の影法師ともいえる黒面法師との最終対決の怒涛の展開を見せるのである。中学生の時に吉川英治「親鸞」を読んで続けざまに「歎異抄」「出家とその弟子」を読んだ夜から、40年近くが経った。なぜ人を殺してはいけないなのか。どうして普通の人が何千人何百万人も殺す戦争が起こるのか。私は私の方法で、それの答を探してきたが、答は曖昧模糊としているし、それを防ぐために何かをやってきたかもしれないが、一方では何も出来ていないのかもしれない。特に現代の情勢は、それを見事に証明している。私は黒面法師が遂に真宗に帰依するラストを想像していた。そう思うのは、やはり私の人生経験の浅はかさだったのかもしれないし、そもそも「他力」がわかっていないからなのかもしれない。この長編は、主な登場人物すべてが(親鸞をのぞいて)「往生」する描写が無く終わっている。まことに不思議な宗教小説と言わねばならない。しかし、それこそが五木寛之の誠実さの現れのように思えるし、これはそもそも著者のいうように碑史小説であって、まさに仏の教えに近づくための方便としての「唱導」のようなものだったのだと思う。2016年5月30日読了