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今日の記事はUnder The Sunに投稿したコラムを転載することでお許し願いたい。ちなみにこのUTSはTBセンターです。メンバーで無いとTBできないと言うことではありません。ぜひ皆さんしてやってくださいね。 「夏休み」というキーワードで思いつく言葉は三つです。「冒険」と「恋」と「宿題」。 しかし、前者二つは貧しい体験やら、とても言えない体験しか持っていない。 小学生のとき、自転車で半日かけて山の方向に行けるところまで行ったのが唯一といっていい冒険だったかもしれない。恋は・・・燃えるような恋をしたかった(涙)とだけいっておきます。 で、あと残る宿題でいろいろと思い出してみた。当然印象的なのは、小学校の時の宿題。 夏休みの後半は、自由研究や読書感想文など「大型宿題」の季節である。私はたいていこの時期に絵を描くようにしていた。小学校二年くらいから一度描いてみたいなあ、と思っていたものに、自宅の二階の窓から見える一本の大木があった。距離は直線で一キロほど離れているだろうか。我が家の辻墓がある里山の中腹にこんもり茂った、トトロの木のような大木があった。二階の窓からそろりと屋根の上に上がり、そこからの景色を眺めるのが大好きだった私はいつかあの木を描いてみたいとずーと思っていた。今は到底あの屋根には上れない。当時三十数キロあった私の体重は今ではその倍以上になっているからである。屋根の上に上がるのは、子どもの特権のひとつではある。 屋根の上からは、見慣れた人たちが住む近所の家が俯瞰して見え、普通は見ることの出来ない遠くの景色が見え、里山から時おり涼しい風が吹いた。小学校三年の夏、そしておそらく四年の夏、私は二回大木の絵を描くのに挫折した。私が描きたかったのは、一本の木から無数に枝分かれしているその木の構造だったのである。冬になるとさらによく分かるが、一本の木から大きな枝が幾つか分かれ、そこから無数の枝分かれがしてあるのに、なぜか一本の木の印象は統一された形になっている。そこが面白かった。だから枝をかかなければ意味が無い。しかも夏は緑の葉まである。現在の私ではそもそも目が翳んであの一本の枝まで見ることが出来ない。小さい頃だから見えた新鮮な一本の木であった。けれども実際に描くとなると、どうしても枝の一つ一つ目を奪われ、しかも全体像どころか、枝と枝の関係まで描くのも出来なかった。写真のように見たままを描かないと、思ったようにかけないという思い込みが小学生の私にはあった。つまり、実際あの木を描くのは無理な相談だった。 小学校五年の夏、学校が企画した絵画教室に通った。地域の工場の油にまみれた工作機械を30人ぐらいで描いて、どこかの先生が指導するという教室だった。そこで私は水彩画の重ね塗りの技法を学んだ。けれども工作機械の形はいかにも簡単で、私には興味はもてなかった。重ね塗りをすると思ったような色は出たけれども、油でギトギトになった鉄を薄暗いところで描くので、暗い色になって好きではなかった。けれどもまじめな私は先生の言うとおりに重ね塗りをしていった。これで出来上がった絵を提出すると宿題が済んだことになったのも魅力だった。その絵のことを忘れていたころ、私は朝の全校集会で名前を呼ばれ、校長先生から一枚の表彰状を貰った。あの絵が県の絵画展で準特選になったというのである。結局その表彰状が私の生涯で一番大きな表彰状になった。今なら合点が行く。あの先生はこの絵画展の審査員のひとりだったのだ。 さて、私はいまだあの「夏休みの宿題」を持ち越している。実物の木では無いけれども、私の周りにある「小さな枝の一本一本」を描くことと「大木の全体像」を描く事。そしてさらには「その背景の里山」を描くこと。県の絵画展などいう茶番には出品しないけれども、私の生涯の宿題になっていると思っている。 今年のお盆、里山の辻墓に家族で参った帰りに父親がその大木を案内してくれた。私は知らなかったのであるが、その大木はエゴノキといい、私の村の一族の鎮守の木であったのだ。「この木の中は空洞になって、良く遊んだものだ。ここの木に登って数メートル下に落っこちて奇跡的に怪我ひとつ負わなかった事もあったなあ」今年に限って父はなぜかそんな昔話をした。つい数年前から父が音頭を取り、お祭が再開したらしい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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