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カテゴリ:07読書(ノンフィクション)
高村薫の「作家的時評集2000-2007」を読み終えました。
ここにあるのは、一人の作家の感情です。その年の時評の前には、朝日文庫の編集部が編んだその年の年表が載っています。それを見るだけで、日本というのはこの数年で見事に新自由主義という荒れ野に入り込んで右往左往しているのだなあと思えます。 高村氏が一貫していっているのは、インターネットなどで飛躍的に情報処理能力が上がったけれども、かえって「言葉」は失われた、ということです。小泉さんだけではなく、企業も国民も、直感だけが先行し、きちんと考えることができなくなった。公共心が無くなった。「あきれてものが言えない」「むかつく」その次の言葉が言えない。 2001年2月9日、ハワイ沖で愛媛・宇和島水産高の漁業実習船えひめ丸が米原潜に衝突され、沈没。高校生九人が行方不明。 高村氏は言います。 「どうしてこうなのだろうか。どうして私たちは怒らないのだろうかと胸に手を当ててみると、結局私たちはそれほど悲しんでいないのだ、と気づかされます。悲しくないことはないが、その悲しみが大きくないために、怒りが噴出すには至らないのだ、と。ここにはたぶん、私たち日本人の心や感情の実態が表れています。悲しいテレビドラマを見て涙を流すのに、なぜ九人もの命が奪われて、胸が張り裂けないのだろうか、なぜ怒りを噴き出すことができないのだろうか。このことはまず人間として自問しなければならないだろうと思う次第です。」(2001.4「文芸春秋」) 「国家や企業の本態は情緒ではないので、どんな事態があっても悲しむことはない。JR西日本の事故対応を見たらわかるように、国家も企業も基本的に、一つの事態に直面すると、その対処を一つ講じるだけです。悲しみ、怒り、そして考えるのは、個々の人間だけです。そして、こうした情緒や感情だけが、人を物事に真剣に対峙させるのであり、そこから初めて、物事は動きだすのではないでしょうか。」(2005.7「論座」) 自省を迫る文章です。 基本的に私は怒らないように、悲しまないように、たいてい自制的であろうとしています。わりと考えてはいるのですが……。その中からこぼれおちる言葉はあったのかもしれない。ときどきは「ちばけんな!(ふざけるな)」と言いたいと思います。 彼女の言葉は知性的であるが、同時に非常に作家的である。私は彼女の著書は全部読むことにしている。戦前の教養主義の可能性を描いた「晴子情歌」を経て、晴子の愛人である老政治家の80年代の「政治」とその息子の仏教哲学問答を描いているらしい「新リア王」(未読)を経て、いま現在は2000年代を舞台に晴子の孫の時代を描いているらしい。どうやらまたミステリ仕立てになるようだ。言葉をなくした現代の若者にどのような課題があるのか、あの緻密な文体から浮かび上がる世界を見てみたいものである。その前に「新リア王」読まなくちゃ。 読売新聞や文芸春秋や論座に高村薫がいまだに呼ばれることがある、ということに幽かな希望を感じる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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