再出発日記

2008/07/09(水)07:53

「さまよう刃」あるいは少年法の改正について

08読書(フィクション)(20)

さまよう刃東野圭吾(角川文庫) 長峰の一人娘・絵摩の死体が荒川から発見された。花火大会の帰りに、未成年の少年グループによって蹂躪された末の遺棄だった。謎の密告電話によって犯人を知った長峰は、突き動かされるように娘の復讐に乗り出した。[BOOKデータベースより] 長峰は犯人の部屋で娘を陵辱したテープを見つける。そのときに少年が帰ってきた。 激しい怒りがこみ上げてきた。同時に急速に手足が冷えていくのを覚えた。長峰の心の奥底に潜んでいた何かが、彼自身でさえその存在を自覚したことのなかった何かが、むっくりと頭をもたげた。それはたった今まで彼の胸中を支配していた悲しみの感情を、ぐいと隅に押しやった。 犯人の一人を殺害し、さらに逃走する父親を、警察とマスコミが追う。正義とは何か。誰が犯人を裁くのか。世論を巻き込み、事件は予想外の結末を迎える―。重く哀しいテーマに挑んだ、心を揺さぶる傑作長編。[BOOKデータベースより] いくつかのブログをみさせてもらった。みんな、長峰に同情的である。最初の殺人こそは衝動的であったが、もう一人の犯人の少年を追うのは、非常に理性的、計画的である。けれども、多くの人は長峰に同情的である。少年法の厳罰化を望む人も少なくはない。 こう書いたからといって、私はその人たちに反対するわけではない。最初の殺人、あのようなシチュエーションで犯人が目の前にあれば、それは殺してしまうでしょ、とは思ってしまう。私には娘や息子はいないので、自分に置き換えるわけには行かないが、けれども第二の殺人のためにすべてを投げ出した主人公を匿ってしまう、かもしれないとさえ思う。それだけ被害者の親の感情を説得力ある筆致で描くリアリティのある小説だった。 長峰を匿うペンションオーナーの和佳子の存在が救いだったと書くブロガーも少なからずいた。和佳子は一方で長峰を説得する。自首して裁判で少年法や世の中のあり方について問いただすことが出来るのはこの事件で注目を集めている長峰さんにしかできないと説得する。しかし、作者は和佳子の存在を肯定的に描いているわけではない。結局彼女の発した言葉で悲劇を生むのであるから。 結局小説らしく、悲劇だけを残して、問いかけだけを残して物語を終わらせている。 長峰の「感情」は理解できる。けれども少年法の厳罰化を望むかといえば、話は別である。 実は今年6月11日、秋葉原事件ですっかり陰に隠れてしまったが、少年法が変わっている。 改正少年法が成立 被害者、遺族ら傍聴可能に(共同通信社)  原則非公開の少年審判で、殺人などの重大事件について犯罪被害者や遺族の傍聴を認める改正少年法が11日午前の参院本会議で、自民、公明、民主各党などの賛成多数で可決、成立した。  改正少年法は「殺人など他人を死傷させた重大事件」を対象に、家裁が加害少年の年齢や心身の状態などを考慮し傍聴を許可する内容。被害者らが不安や緊張を感じる恐れがある場合は、弁護士や支援者の付き添いも認める。施行日は政令で指定し、公布から6カ月以内。 少年法の厳罰化ではない。けれども「少年の更生」を趣旨とした家庭裁判所の裁判で、柔軟な対応が難しくなる可能性はあるだろう。 ブログ「杉浦ひとみの瞳」で弁護士の杉浦さんは 少年法改正は拙速ではいけない で、問題点の第一にそれを挙げています。 詳しくは読んで頂きたい。ここは議論のあるところでしょう。私は杉浦さんの主張を支持する。 この小説を読んで長峰の「感情」に寄り添ったものならば、第二第三の問題点の方に注目していただきたい。 「これまで加害少年と会う機会など与えられてこなかった法制度が変わり、加害少年の審判を見届けることができるとするならば、親はどんなに辛くても行くのではないでしょうか。「お母さんが見届けてきてあげるから」となるのではないかと思います(これは想像です)。でも、ある精神科医に話したところ、「それは無茶なこと。被害者の精神状態は大変なものになるだろう、自殺の危険性だってあるかも知れない。」と強く反対をされました」と杉浦さんは言います。最終調整で「被害者らが不安や緊張を感じる恐れがある場合は、弁護士や支援者の付き添いも認める。」とはなったが、小説を読んだ者にとって、それがあまり意味のあることとは思えない。 さらに、「ご存じでしょうか?審判廷というのは5メートル四方くらいの狭い空間です。畳の部屋にすれば、15~16畳くらいでしょうか。ここに裁判官と、書記官、調査官と、少年、その保護者、付添人(弁護士)が入ります。そして、この狭い空間に被害者のかたが同席することになります。子どもが殺されて49日で、目の前にその犯人の(と疑われている)少年がいるわけです。思いも寄らない行動にでる衝動に駆られることはむしろ必然ではないでしょうか。」と杉浦さんは言います。小説のカイジのようにどんなひどい人間でも、少年である限りは数年後に出所できるわけです。小説的には自分の身体を凶器と化してでも飛びついて犯人を殺そうとする親が出現してもおかしくはないと思います。 単に今まで被害者の親のことはほとんど考えていなかったから、一部の被害者の言い分をそのまま認めました、と言う法律の作り方は、背景に「想像力の貧困」がある。それが結局昨今の「法の厳罰化」「自己責任」に結びついている。小説を読むことは「想像力の貧困」を打ち破る手助けになる。とにもかくにも法は成立してしまった。悲劇は起きなければいいのだが‥‥‥。

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