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カテゴリ:水滸伝
血涙(上)(上)(下)PHP文庫 北方謙三 来い。石幻果は吸葉剣を構えなおした。結局、弟妹のすべてを、自分の手で殺すことになる。そのために自分は生まれ、ここまで生きてきた、という気にさえなった。 六郎。顔もはっきりと見えてきた。石幻果は、両手で吸葉剣を構えた。馳せ違う。六郎の兜を、斬り飛ばしていた。血にまみれた髪を振り乱しながら、六郎が馬首を回してくる。石幻果は、駆けず、六郎が近づいてくるのを待った。 両手で吸葉剣を構えた石幻果の胸に、さまざまなものが去来した。父、もうひとりの父、兄と弟。妻と子。自分は生きて、これからも生き続ける。 石幻果は、六郎にむけた吸葉剣に、わずかだが力をこめた。 「新楊家将」である。前作「楊家将」も男の物語であって、非常に読み応えがあったが、ひとつ不満だったのは、史実だから仕方ないとはいえ、楊業はあくまでも宋の帝に忠誠を持って仕えており読みようによっては愛国心闘士の戦場物語と見えなくもなかったという点であった。もちろん敵方の遼の「白き狼」耶律休哥の物語もしっかりと作っていたので、勧善懲悪の話になっていないところはさすがではあった。この「血涙」は違う。すでに楊業の息子の代の話になっており、代々の武将の楊一族がいつも宋軍の捨て駒として位置づけられているのを悟っている。北方謙三らしい「アウトロー」の話として、やがては「水滸伝」梁山泊の将軍として生きる楊志、楊令の前史としての位置づけがしっかりできているのである。 運命のいたずらで敵味方に分かれることになった楊一族の六郎、七朗、九妹、五郎と石幻果(四郎)との死闘の場面は、「男の生き方」の集大成として読み応えがあり、感じるところも多かった。象徴的なのは、吸葉剣と吸毛剣との戦いである。この剣の優劣が個人的な勝敗を決した形になっている。剣にこめられた思いの違いは何なのだろうか。それは決して歴史の使命とかそういうものではなく、「人生悔いのない様に生きる」ということを見守る楊一族の神意だったのかもしれない。 なお、驚いたことにこの北方版「血涙」は本当の「楊家将演義」とは違うらしい。(ウィキ参照)四郎をめぐる物語、つまりこの作は丸々北方の創作なのである。思うに、吉川英治文学賞を取った前作はこの物語を作るための前ふりであったのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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