|
カテゴリ:邦画(09~)
大きなネタバレがあります。
誰かかが言った。前回のテレビ版の芝野と鷲津の関係が、今回は鷲津と劉との関係に移し替えられていると。そうやって、同じテーマを何度もなぞることで(展開が少しづつ変わっていくことで)、「金をめぐる悲劇」ということの意味を浮き上がらせるのである。映画にするという意義はそういうことなのだろう。 監督 : 大友啓史 原作 : 真山仁 出演 : 大森南朋 、 玉山鉄二 、 栗山千明 、 高良健吾 、 遠藤憲一 、 松田龍平 、 中尾彬 、 柴田恭兵 しかしながら、映画に求めるのは、テレビ版以上の緊張した「葛藤」である。それは今回あったのだろうか。 今回鷲津は、当然スタンスは変わっている。劉は先輩の鷲津の「強くならなきゃ人を殺してしまう。それが資本主義だ」という言葉の「強くなれ」というところだけに影響されて、ファンドマネージャーとして育っていく。しかし、この10年間で鷲津は99%は弱肉強食であるが、1%は守り抜かなくてはならないもの「価値」があることを認めている。それに気が付いていない劉は敗れる運命にあったというわけだ。しかし、劉がなぜ気がつかなかったのか。そこはこの映画で十分に描かれたとはいえない。 この映画、影の主人公は劉である。終始笑わない鷲津は狂言回しにすぎない。だとすれば、劉が金に執着するのは、故郷で何があったか、ということなのだろうと思うが、結局それは匂わすにとどまった。 もう一人の影の主人公といっていい守山の描き方も中途半端。(ちなみに派遣工をめぐるエピソードは「派遣切り」のエピソードではなく、「偽装請負」「派遣法の抜け穴」のエピソードである。)その彼がどういう手を使って派遣行員たちをあそこまで組織できるのか、まったく説得力がない。また、天下のアカマごときがあの程度の集会でびくつくのも全くリアルではない。リアルではないから次のエピソードも、私は納得いいかない。劉に操られたことを知って、400万円をいったん断り、そして劉に影響されてそれを受け取った守山だが、彼の中で何が変わったのか、私にはまったくの謎である。彼が最後に乗りまわす赤いGTは何を意味するのか。聞くところによると、あの車は400万では買えるか買えないかの高級車らしい。守山は自分の生活を立て直すことよりも、あの車を買うことを選んだというわけだ。それは劉のようなファンドマネージャーになる道を進みだしたということなのか。どちらにせよ、2人の過去や信念が希薄なので、この映画の最も核になりそうなこのエピソードが全く生きてこない。 鷲津は最後「資本主義の焼け野原を見てくる」と言って中国最貧地域の劉の故郷に赴く。どうして中国なのか。いくのならば、アメリカだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[邦画(09~)] カテゴリの最新記事
結局、リュウの記憶にあった赤い車は、本物のアカマGTだったんでしょうかね?
(2009年06月13日 12時59分10秒)
出来事だけが描かれる。人間が登場する部分は
テレビの事件特集の再現ドラマのよう。 最近、そんな映画が多すぎると思います。 ラストに守山がアカマGTに乗っている場面で 「グラン・トリノ」を思い出しました。 この件についてトラックバックをさせていただき ます。 (2009年06月13日 19時33分37秒)
まりっぺさん
>結局、リュウの記憶にあった赤い車は、本物のアカマGTだったんでしょうかね? ----- どうなんでしょうかね。 むしろ、単なる赤い車だったけれども、彼の記憶の中で、金持ち国の象徴として神聖化していったというほうがリアルだと思います。 (2009年06月13日 23時46分52秒)
哲0701さん
>出来事だけが描かれる。人間が登場する部分は >テレビの事件特集の再現ドラマのよう。 >最近、そんな映画が多すぎると思います。 > >ラストに守山がアカマGTに乗っている場面で >「グラン・トリノ」を思い出しました。 >この件についてトラックバックをさせていただき >ます。 ----- ありがとうございます。 圧倒的に好意的な感想が多い中で、ぼろくそに言っている数少ないブログとしておたがいがんばりましょう(^_^;) 「グラントリノ」としての位置づけをもし考えたとしたならば、少なくとも、守山に劉の何かを受け取ったという場面がないといけないと思うのですが、お金を拾うことだけを引き継いだのでは、全く説得力がないですね。もしそういう意味ではないというのならば、それこそ観客を愚弄した脚本ということになります。 (2009年06月13日 23時51分26秒)
またまたこの映画について書いてみました。
この映画を何回にもわたって書いているのは この映画に現在の日本映画の問題点や課題が 集約されていると考えるからです。 それにしてもどうしてこのように好意的な 感想が多いのでしょうか? (2009年06月14日 07時56分17秒)
哲0701さん
>またまたこの映画について書いてみました。 >この映画を何回にもわたって書いているのは >この映画に現在の日本映画の問題点や課題が >集約されていると考えるからです。 >それにしてもどうしてこのように好意的な >感想が多いのでしょうか? ----- 守山は劉の生き方を否定したのか、肯定したのか、そのギリギリの部分が結局曖昧なままに終わっている。 「誰かになるんだ」。今ではない誰かになることは確かに大切だ。しかし、守山が劉の生き方を肯定するのならば、それなりに説得力を持つ描写が欲しい。エンディングの歌の意味は「富がすべてではない」という意味だそうだ。だとしたら、柴野はそれを確かに言ったが、それは守山まで届いてはいない。柴野と守山が手を結ぶ描写があれば別なのだが、それもない。 ホントにどうしてこんなに評価が高いのか、不思議でなりません。 (2009年06月14日 09時21分49秒) |
|