再出発日記

2009/09/27(日)23:30

山大新聞会のころ5「記者デビュー」その二

山大新聞会(14)

「エー!僕だけで取材に行くんですか。ムリです。」 などというような口答えはしなかった。 私は素直な新入生だった。 私は県庁に赴いた。 そのころ、山口県の県庁はまだ全体が木造の平屋であった。戦災を免れていたたためか、いくつもの建物が長い廊下で繋がれて、非常に広い迷いそうなところであった。 反対に言えば、歴史的な由緒ある建物であった。 一般的には産業の中心に県庁はあるものであるが、山口県はその役割は宇部市や徳山市にふられていた。なぜか県庁所在地には文化的な建物しかなかった。伊藤博文や山県有朋、或いは岸信介を生んだ山口県、歴代の政治家たちに何らかのこだわりがあったのかも知れない。 複雑な木造の廊下を歩いて、何も知らない新入生の私は、受付でB氏を呼んでもらったのであるが、電話に出たB氏は突然やってきた得体の知れない学生を訝しがり、今忙しいので後で連絡するといって、私たちの連絡先を聞いただけて会ってくれなかった。(今から考えると当然といえば当然であろう。) 私はすごすごと戻っていったのであるが、やがて会ってもいいという連絡が来る。 もしかしらA教授に私たちの新聞会が怪しいものではないと聞いたのかかも知れない。 20年前の学生で当時学生自治会委員長だったというB氏は、いまはスーツを着たただの中年のおじさんに見えた。私はおそらく用意してきた質問を機械的にしていったのだろうと思う。中年おじさんは当時を懐かしむようにいろいろと話してくれたのだと思うが、今ではほとんど覚えていない。ただ「なぜ60年安保闘争を始めたのか」と聞いたとき、次のように言ったことは、私が書いた記事の中心的な言葉になったし、生涯忘れることの出来ないものでもあった。 「私は安保問題の難しいことは良く分からなかった。けれどもあの国会の強行採決を知って、このままでは、日本の民主主義はだめになるかもしれない。ただ、その危機感だけで、集会を準備したし、デモもやっていったんだと思う。」 突然目の前の中年おじさんが、私たち学生の仲間に見えた。 それは当時の自覚的な学生たちの正直な言葉だっただろう。 そしてそれは当時としてはすでに(そして今も)失われつつある言葉だったろう。 私はそのインタビューという「事実」を採取することに成功したのである。 全国闘争と組織の関係、集会とデモの関係、そんなことのイメージをぜんぜん持っていなかった私は、聴くべき言葉をずいぶん逃していたと思う。私はもう少し突っ込んで、たとえば次のような質問もしてみるべきだったかもしれない。 「あの当時のことを思い出してみて、 現在の日本や学生に対して、何か思うことはありますか。」 過去の歴史から現代を照射する、そういう試みも面白かったかもしれない。 しかし、まあ何とか私の「初めての取材」は終わった。 次は私の「初めての記事」である。

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