再出発日記

2009/11/01(日)23:11

加藤周一氏の「隠し子」について

加藤周一(62)

加藤周一は自分の周辺のことを語らない。もちろん「羊の歌」「続・羊の歌」という自伝はある。しかし、それさえも1960年で「審議未了」ということで終わっているし、それの続編の短文も書かれているが、70年代で終わっている。 かつて「居酒屋の加藤周一」を企画した井上吉郎氏はは私にこう言ったことがある。 「加藤さんの理論なんか研究するのはやめて、もっとおもしろいものを研究したほうがいい。たとえば、彼の朝日新聞連載の「夕陽妄語」に時々問答形式の話のときに高校生が出で来るだろう?彼はいまではもう立派な大人なんだけど、じつは彼の子どもなんだよ。しかも最初の奥さんの子どもなんだ」 「というと、60年代のドイツ人の奥さん?」 「いやちがう、加藤さんはその前にすでに結婚している。いや、実際の結婚はしたかどうかははっきりしない。「羊の歌」に京都の女というのが出てくるだろう?加藤さんはそのとき結婚までいっていたんだけど、結局わかれてしまう。その経緯がよくわからない。でも、どうやらそのとき一人息子をもうけていたらしいんだよね」 「えっー!そんなんですか!」 「そのあたりを君に調べてもらいたいんだよ。どうも「夕陽妄語」に出でくる高校生はその時の息子みたいだし、まるで夢の中のこまっしゃくれた加藤さんの分身みたいに出で来るものだから、彼が一体どんな大人になっているのかもすごく気になるんだ」 「それはものすごく魅力的な話なんですけど、私の手には負えない話です」 という、もうすでに15年くらい前の話なのでこの会話自体の信ぴょう性は留保させてもらいたいが、そのあと唯一加藤氏と懇談会を持った時にある人が 「加藤さんの教育に対する意見を聞きたい」と質問したことがあった。「その質問に対しては、私は答える資格がない。子供を育てるということは、本当に大変なことです」と言った。みんなは(まずいこと聞いたかな、という思いで)それ以上聞くことができなかった。 その話とはまた別の流れで加藤氏は「今まで三回結婚をしたけど」と言ったのである。みんなは「えっ」と思った。「羊の歌」で国際結婚をしていたのはみんな知っていた。けれどもあと2回いつ結婚したのか。これもみんな勇気がなくて、誰もそれ以上突っ込んで聞くことができなかったのである。そのあと、もとの外国人の奥さんとは離婚して、いまの矢島翠さんと一緒になっているのがわかったがつい最近である。けれども、矢島翠さんと共著で「日本人の死生観」を書いたのが、70年前後だったと思うから、実際二人が一緒になったのは、もっとずっと前だったのだろうとは思う。 話はそのことではない。問題はあと一回の結婚は何だったのか、ということだ。それが50年前後の「京都の女」だったのではないか、と私はずっと思っている。 ともかく、著作集にも加藤氏の「年表」はあるのだが、「誰誰と結婚して子供をもうけた」という話は見事なまでに削られている。だから、加藤研究で人より違うことをしようとすれば、この部分を明らかにすればいいという、井上吉郎氏の意見は正しいということになるだろう。 これは下世話な三面記事的な関心ではない。最近になって、九条の会の一番の仕掛け人は加藤周一ではないか、ということが明らかになってきた。先の朝日の記事の「居酒屋のムッシュ」では、九条の会の事務局長小森陽一が説得されたのは03年秋加藤周一氏からだということを明かしている。 「改憲反対の運動を呼びかけなければ、手遅れになる」 その年の7月。党首討論で、戦闘地域への自衛隊派遣は憲法に違反しないのかと問われた当時の小泉首相は「どこが非戦闘地域か、私に聞かれたってわかるはずがない」と、ひとごとのように答えてていた。 喫茶店で、加藤は続けた。 「いくつにも分かれている護憲運動を、知識人が協力して一つにつなぎたい」言葉には幾分焦りが混じっていたように小森は感じた。加藤の肝いりで、翌年6月に「九条の会」が発足する。 九条の会の広がりが、危機的だった憲法改悪問題を転換させたのは今ではほぼ常識になりつつある。加藤氏は自らの中の「平均的な日本人」に付いて常々語り、「日本のために」発言していると、常々語ってはいたが、ついには「家族のために、子孫のために」という発言は一度もなかった。(きっぱり)加藤の中での「家族問題」はどういう位置づけなのか、日本思想史を語るときに、加藤周一は必ず問題になるが、その全体像を明らかにするためにもこれは必ず問題になる。 加藤氏の戸籍謄本を取よせて、関係者にインタビューする等、私はそこまでする気力はない。誰か調べてくれないだろうか

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