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カテゴリ:考古学
車塚古墳への道、息が切れます。昔は登山道を作っていたとは思えない。本当にこんなところに古墳はあるのか。 あった。これは後方部より前方部を見る写真。(よく分りませんね^_^;)四世紀前半の箸墓古墳と同じバチ形の前方部を持つ前方後方墳である。三角縁獣神鏡十三面出土。確かに全長48.3m、決して大きくは無い。しかし、登ってみて初めてわかることはある。 大きさが問題なのではない。写真は竜の口山である。この山頂に車塚古墳はある。広大な(おそらく)自分の領土を見渡せるところに塚を作ったのだ。きちんと要らない枝を切れば、遠くからもこの塚を見ることができたはずだ。一方で、山頂に作ることの労力は並大抵のものではなかったはずだ。 私は同時期の伽耶の遺跡と比べていた。山の急斜面でいえば、大伽耶の王陵、高麗の池山洞古墳群(写真)の山頂の王墓よりもこちらのほうが造るのに苦労が要ったのではないか。あそこの王陵も確かにわりと高い山の上だったが、登る苦労は全然ここと違った。少なくとも、四世紀段階で、池山洞には数えるぐらいの小さい古墳しかなかった。私の感覚は、大伽耶よりもりっぱな古墳を作っているように思える。山を刈って遠くからも見えるようにし、上り口も整備し、資料館を併設すれば、池山洞古墳に匹敵する観光資源になるのだが、勿体無い。(そのような観光資源が日本には無数にある) 韓国と違うところは、韓国の王墓は群集墳がほとんどなのに、(写真は釜山の福泉洞古墳群)なぜか日本列島のそれは単独墳がほとんどなのである。この違いはいったいどこから来るのだろうか。 車塚古墳は古墳時代の最初期では非常に大きく質も高い古墳であった。その被葬者は間違いなく、吉備のクニで、大首長だったはずだ。私の見果てぬ小説の舞台である二世紀後半から三世紀にかけての吉備の国のヤマト遷都の時代から約70~120年後の世界である。 (まだプロットも出来ていない)私の小説の主人公は、日本列島における全面戦争を避けるために、あえて吉備の国ではなく、韓半島に近い北九州でもなく、日本列島の奥の大和の地に出雲と摂津、但馬そして北九州を含めた大連合国家をつくる。そこで理想的な国家をつくり、そのモデルタイプを全国に広めたのである。 吉備の国に日本第四位、作られた当時では日本一の造山古墳が造られるのは車塚が造られたときよりさらに100年後(?)の出来事である。飛鳥に都が出来るのはさらにそのあと50年以上の月日が要った(はず?)。前方後円墳ではなく、あえて前方後方墳を作った車塚の首長あるいは王は、既に創建初期の理想が失われた大和に対する対抗意識を高く持っていたのかもしれない。何故そのようなことになったのか。考えれば考えるほど面白い。 この日は夕焼けがきれいでした。11月の韓国旅行のレポートは1月初めから始めます。今一生懸命旅の日記をパソコンに書き写しているのですが、書いている途中に次々と思い起こすところがあってぜんぜん進みません(^_^;)。それでも、せめて五日分ぐらいは先ずは連載したいので、準備に時間がかかっています。お待ちください。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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