再出発日記

2011/07/28(木)20:20

懐かしい店 韓旅16-2(扶余)

韓国旅行(09~)(84)

ちょっと遠かったが、国立博物館まで歩いていった。やっぱり新しく文化会館なるものを併設中だった。この10年で扶余の地は建設ラッシュだ。一時この地方へ首都移転の構想があったからだろうか。 扶余国立博物館。私の訪れた初めての地方国立博物館である。日本で国立博物館というと、ものすごいりっぱなものを考えがちであるが、韓国には主要な都市にはたいていある。日本で言えばほとんど県立博物館と考えてもよい。そうとは知らずに、最初に来たときは感激してここの展示物で韓国の遺物のほとんどを見た気になったものだ。 これは博物館前に展示している天王寺出土の石佛。同体に比べ頭が大きい。柔和な表情をしている。高麗時代作。 博物館の入り口にはやっぱり今も松菊里遺跡の模型が飾られている。この遺跡はおそらく日本では一番よく知られている遺跡で松菊里型といわれる丸い竪穴式住居は日本列島に数多く広がった。 しかし、そのままストレートに広がったわけではないことも今回気がついた。例えばこのような三角の石包丁は日本ではほとんど見つからない。 また校成里遺跡の有溝石斧も日本では珍しい。扶余の西を流れる金河流域では細形銅剣が広く採用されたようだが、日本では珍しい。 中国、韓国、日本の歴史年表をしばらく眺めながら、私はしばし妄想にふける。例えば、私の小説の主人公を西暦150年に韓半島に渡らせたとすると、金官伽耶国が成立して100年、百済は170年、楽浪郡は270年、高句麗は190年の歴史を持っている。ということを頭に入れながら話を作る必要があるな、などと思っていた。実際は伽耶国のキムスロは100歳以上生きていたことになっているから、彼が渡韓した時にはまだ生きていることにしてもいい。実際、国造りを始めたばかりだろう。しかし、その頃百済は国の体裁を充分持っていたと考えていいだろうし、中国を背景に楽浪郡は大都会だったろう。しかし、鉄を力に武力に依らなくても大国と充分渡り合える経験を彼は金海伽耶を通じて持つことになる。そして20年朝鮮半島に居て、日本列島に帰ると倭国大乱の真っ最中だった。…… 百済最盛期の最高傑作、百済金剛大香炉が展示されていた。以前来たときには他へ出張していて見ることの叶わなかった代物だ。複雑な装飾が全面を覆っていて素晴らしい。しっかり見ることができた。ただし、照明が暗く、やっぱり上手く撮れていなかった。申し訳ない。 隣になにやら新しい建物が出来ていたので、こっそり入ってみる。文化財保護センターみたいなものだった。気がついたのは、あまりにも発掘土器が少ないということ。もしかしたら、完品土器しか採取していないのではないか。まさか聞くわけにも行かず、こっそりと出る。 足が痛くてずっとビッコを引いているのだけど、タクシーを拾うのが嫌で観光案内所の方向に我慢して歩いていると、以前昼食で入ったことのある食堂を見かけた。サトクッパブ食堂。 片言と手振りで注文したのが懐かしい。たぶんあの時と同じでサトクッパブを注文。やっぱり青とおがらしが出てきた。味噌はお店ごとで工夫があるのだろう。見慣れない小皿があったので聞くと「貝だ」という。やはり近くに河があるので採れるのだろう。貝の塩からである。この店は全体的に味付けは辛い。汁ご飯には牛のなにかの肉が入っている。あとで「サトは牛の肉だと思うけどどこの肉ですか」と聞くと、「牛の頭だ」という。牛の頭というと、ソモリクッパブだけかと思っていたら、こんな呼び方もあるのか。微妙な違いがあるのだろうか。さすが肉を食べる文化を持つところは奥が深い。弾力のある美味しい肉でした。 この店は釜でじっくり汁を煮ているのが売りなのか、外に出るとこのような釜場があった。ともかくお店の人と(気楽に)話せるようになったのは、この7年間の私の大きな成長である。

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