ふくやま美術館は二回目。この博物館めぐりで、一番見所があった。とくに、特別展示として「小林徳三郎と東京モダン」というのをしていた。徳三郎(1884-1949)の名前は初めて知ったが、実は今読んでいる白土三平の父「岡本唐貴自伝的回想画集」と比べると、同時代の画家として対極にあるような気がして興味深かったのである。これは美術館のエントランスホールに掲げているバラディーノ・ミンモの「行く者、とどまるもの」である。
福山で生まれてはいるが、幼いころ東京の伯父の養子となって東京高等工業学校、東京美術学校と進んでいるから、いわばいいところの都会人として成長していたということになる。そして岸田劉生のヒュウザン会に参加、紀伊国屋、資生堂で個展を開いている。一方岡本唐貴は1903年倉敷市に生まれた。どうやら祖父は地主のようだが、父親はどうもそういう血筋を嫌って非正規労働者として転々としていたらしい。唐貴は郷里西浦の小学校こそ卒業したが、生涯何度も何度も引越しをしている。生涯貧乏とは離れなかった。16歳の時に米騒動を目撃。やがて次第にプロレタリア美術運動にのめりこんでいく。活躍の舞台は共に東京ではあるが、作風は当然大きく違う。
何の苦労もない徳三郎であるが、たぶん一瞬だけ二人が接近した時がある。関東大震災の時だ。二人とも東京にいて、その後二人とも郷里(唐貴は母のいる神戸)に帰っているのであるが、徳三郎は発表は一切しなかったが、震災で道端に死んでいる男たちをスケッチしている。たくさんの徳三郎の絵画の中で、それだけが異彩を放っていた。一方、唐貴は震災の時はスケッチどころではなかった。震災の混乱の中を上野公園やあちこち歩き回る。しかも知り合いから「あんたたち、朝鮮人と間違えられて匕首をもった人に付けられていたよ」と注意を受けるくらいだったという。もしかしたら、匕首を持った男はここぞとばかりアカの噂のあった唐貴たちを狙っていたのかもしれない。此処で二人はほんの少し接近するが、やがて唐貴はさらに先鋭化していき、逮捕が繰返されるようになる。戦争の時代、徳三郎は資生堂の社長から箱根の別荘を紹介されてゆっくりと静物や景色を描いている。唐貴は更に困窮を極め、家族も登(白土三平)等子供四人になり、大阪朝鮮人部落、信州等引越しを繰り替えす。
どんな絵を描くか。
それは、持って生まれた素質ももちろんあろうが、生まれ出ずる環境も一種決定的であった、のだと私は思ったのでありました。
それは、おそらく白土三平の場合にも当てはまるだろう。