再出発日記

2016/04/03(日)22:37

「出雲に米づくりが伝わった」展(中) 出雲国の旅3-2

考古学(162)

「出雲に米づくりが伝わった」展の続きである。入口に置いてあったチラシに、わざわざ写真撮影OKと但し書きがしている。しかも商業目的でなければ、ブログやフェイスブックにアップしてもOKだとも書いてあった。こういう展示はいまだかつてなかった。その代りこれだけ大々的な展示にも関わらず、図録は作っていない。よって、このブログがその代りの記録の手助けを少しでもできるようにと、今回は異例の枚数をアップします。三回に分けてこの展示を連載する所以です。 木の葉文様は、山口県下関の渡来系弥生人が作った綾羅木郷遺跡土器から多く出土し、吉備までその範囲は広く流行した。縄文時代の度合いが多いこの三田谷遺跡で、いやこの出雲全体で、木の葉文様土器が多く出土するのは、どういうことなのだろうか。ひとつの「謎」として、ここにメモしておきたい。 この展示で、1番目立つオブジェでした。三田谷遺跡から見つかったこの文様は、東北の縄文の亀ヶ岡式土器にも使われている文様(三叉文)である。西からの文様も、北からの文様もある。この当時、文様は単なるファッションではなかったはずだ。だとしたら、三田谷ではどういうドラマがあったのか。非常に興味深いですね。 ここに載せた礫(つぶて)も石斧も、昨日に行った田和山遺跡の見ることの叶わなかった遺物である。実は礫は初めて見た。びっくりした。こんなに大きいとは。頭に直撃したら必ず死ぬ。しかし、そんなのを用意してまで何を守っていたのか。頂上には小さな社がひとつあっただけなのである。 実はやっと「第二章」。 この企画展のスターとして登場する遺物である。前の人面土器が縄文人を表しているとすれば、こちらは弥生人を表しているという意図です。瓜実顔の一重まぶたという、弥生人の登場です。 第三章弥生の暮らしと祈りです。 吉備の発明品である曲柄鍬を出雲の弥生人は、さらに改良して使っていたという。

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