2016/05/08(日)07:51
加藤周一文庫開設記念講演会
加藤周一文庫開設記念講演会が昨日立命大であった。
以下はホームページでのお知らせのコピー
2016年4月、立命館大学は衣笠キャンパスに新たに平井嘉一郎記念図書館を開館し、
その中に「加藤周一文庫」を開設しました。
本文庫の意義を広くご理解いただくため、「加藤周一文庫開設記念講演会」を開催します。
◆加藤周一文庫
◆加藤周一現代思想研究センター
2016年5月7日(土)13:45〜17:10
講演1:「加藤周一 −世界を見つめた旅人」講師:ソーニャ・カトー
講演2:「加藤周一さんを再読する」講師:大江健三郎氏
表彰式:ソーニャ&シュウイチ・カトー スカラシップ表彰式
会場:立命館大学衣笠キャンパス
行きたかったが、仕事があって京都行きは早々に諦めていた。そしたら、Ustreamでライブ中継してくれることになった。大江健三郎さんの講演は途中で席を立たざるを得なかったが、貴重な話を聞くことが出来た。
先ずは立命大吉田学長は「我々はいま時代の岐路に立っている。だからこそ、加藤周一を再読する意味がある。」と挨拶。
加藤周一自選集その他を編集した鷲巣力氏(研究センター所長でもある)が司会を勤めた。鷲巣氏は、5年間加藤周一文庫開設のために準備してきたらしい。
ソーニャ・カトーさんの話は、私なりにまとめると以下の通り(聞いたのをメモしているだけなので、話の全てでもないし、正確かどうかわかりません。よろしくお願いします)。
私の父の眼差しについて話したい。私の父は、二つの世界の旅人でした。
私は生後間もなく加藤周一とヒルダ夫婦との養子になりました。
父は日本人でいっとき一緒に暮らしていましたが、その後はウィーンの私と母とは、別々に暮らしていた。父は時々ウィーンに来た。
父が日本からプレゼント持ってくるのが楽しみだった。特におせんべい。私はその缶に宝物を入れ、それもまた宝物にしました。
母は私が11歳の時になくなりました。その時ほど悲しそうな父を見たことはなかった。救えなかったことを悲しんでいた。
年に一度お互い訪問するのが常になった。初めて日本に行ったのは17歳。80年代終わりの頃、三週間の日本滞在は蒸し暑さにびっくりした。父の習慣を見、テニスをする父の姿を追いかける、それだけで幸せだった。
続く何年か間に絆が強くなった。政治的、芸術的なやり取りをした。
2人のお気に入りの街はパリでした。
私にヨーロッパを教えてくれたのは父なのです。ヨーロッパの歴史について開眼させてくれたのも父でした。何処へ行ってもヨーロッパの考察を巡る旅になりました。私の思い出の中の父はいつもヨーロッパ人。でも、父がどれほど日本人であったか、年をとってわかった。亡くなって父が二つの世界を行き来する旅人だとわかった。
人間に対するアプローチも深く見聞きする前に調べてました。
17歳の時成田で別れをいう時、抱擁した。その後はそれが習慣になった。公の場でも変わらない愛情表現が、周囲を戸惑わせた。残念なことに私は一度も日本語を習わなかった。ドイツ語が二人の秘密の言葉になりました。
父のヨーロッパが私のヨーロッパになったように、父のドイツ語が私のドイツ語になりました。
我々2人の人生に政治が重要な役割を果たした。私の人生に政治が重要なものになっていた。
加藤の名前を一生たずえるのは、重要なことです。
父の病気が重くなり、日本の家に行った。人生で最もつらい、最も大切な旅になりました。その時から、日本との結びつきが強くなりました。
長男のマチアス14歳には、シュウイチというセカンドネームがついている。
鷲巣
「サプライズです。もう一人のソーニャを紹介したいと思います。カナダ・バンクーバーの大学で教えていた時の学生、ソーニャ、アンゼンさんです」
ご紹介に預かりましたアンゼンです。1960年代のカナダの学生です。初めて加藤周一に会った時にヒルダさんと親しい人になった。養子を迎える時に名前がソーニャと聞いた。2002年ごろ、加藤周一が東京でソーニャさんの写真を持ってきて、「貴方が名付けだよ」と言われた。貴方のように、といわれた。今ごろ⁉ 無責任だ、と思った。その後、彼女と文通した。会った途端に一生の付き合いと思った。必ず日本で会おうといった。今回それが実現してとても嬉しい。
加藤周一先生との関係。私は四年生のフランス文学の学生だった。文学のコースの先生は、加藤周一先生。その時の感激はまだ覚えている。それで日本文学者になった。いつまでも恩師です。教えからインスピレーションを受けたのは私だけではない。世界中数千人いることでしょう。
短い詩を読みたい。
(原文は英語、うまいことメモできなかった)
ふいに思い出す
先生の棺に収められたのは
論語、聖書、カント
そして、永遠に読み続けたいという願望
ありがとうございました。
私にとってはずっと謎だったことがひとつ明らかになった。加藤周一とヒルダさんは離婚したのだと思っていた。別居はしたが、少なくとも憎しみあって別れたのではなさそうだ。死別したのだ。まるで森鴎外の舞姫だ。よくわからないこともまだ多い。質疑応答でいくらか出たのだろうか。
大江健三郎は体調がすぐれない中で講演してくれたようだ。
全部聞けなかったので、ちくま文庫「言葉と戦車を見すえて」を高く買っていて「戦後の名著、世界的な名著といっていい」とまで言ったことをメモしておく。