再出発日記

2016/08/05(金)13:44

岸田吟香とは何者か

中江兆民(24)

日蘭協会等が主催した「初めてジャーナリストと呼ばれた男  岸田吟香」講演会を聞いてきました。岸田吟香研究者の森泰通(豊田市郷土資料館館長)さんの基調講演は、あまり期待していなかった分、とても興味深いものでした。豊田市(三河)は幕末は挙母藩。その藩の飛び地が岡山県の現在の美咲町にあって、岸田吟香はそこで生まれました(1833年)。秀才の甲斐があって、津山や江戸で学問修行をして、当時の若者らしく、尊皇攘夷思想にかぶれます。1859年安政の大獄で、仲間が次々に獄に繋がれますが、岸田は仲間がシラを切ってくれたお陰で罪を逃れる。ここで、岸田は突然「ノンポリ」になるのです。1861年脱藩(28歳)。なぜそうなったかは詳しいことはわからない。その5年後の手紙の中で、彼は「武士であることがイヤでイヤでたまらなかった」とも書いています。「ままよのぎん」になるのだ、とも書いています。市井に入って、様々な職業を転々とする。深川で銀次と名乗り、仲間に「ぎんこう」と呼ばれたために、名を「吟香」と改める。1970年代の全学連闘士の挫折の姿が重なります。眼病を患い、横浜のヘボンを訪れ、治癒、その点薬をガラスの小瓶にいれることを思いつき、のちに大きく成功します。同時にヘボンから和英辞典を手伝ってくれと頼まれ、和漢文と市井言葉に精通していることが活きる。これが日本初の和英辞書となる。同時に、遭難者で米国の通訳になったジョセフ・ヒコと横浜で日本初の「民間新聞」である「新聞紙」を創刊。しかし、これは世に出るのが早すぎて一年で休刊。その後三つの新聞の創刊に関わるが、自分の名前はあまり出さなかった。脱藩以来、政治の表舞台に出るのを避ける傾向。1873年東京日日新聞主筆。1874年(41歳)明治7年、台湾出兵に無理やりついてゆく。「新聞は国家の耳目なり」という信念。日本で初めての従軍記者になる。吟香従軍記事は、絵もついていて文章も読みやすく評判をとる。「論説の桜痴、雑報の吟香」と言われた。1875年、言論規制法。主筆を退く。政治と真っ向から立ち向かわないのが吟香の処世術だと森さんは云う。安政の大獄でよっぽど嫌なことがあったのだとしか思えない。吟香は議論よりも行動。常に庶民目線のわかりやすいユーモアたたえた文章を書く。会場には、吟香のひ孫、岸田劉生の孫、岸田夏子さんもきていて、楽善堂の使用人は、主人と同じ食事をしていたと証言。吟香の庶民目線はホンモノである。私は彼を「初めてのジャーナリスト」と評価するのは保留したい。ただ「日本大衆ジャーナリズムの父」という言い方は出来ると思う。彼の姿勢は、現代週刊誌の目線と全く同じである。ただし、中江兆民のように、全集が存在しない以上、それ以上に彼を日本思想史上に位置づけることは出来ない。彼が日本の政治をわかった上であの態度をとったのか、単に時流に乗るのがうまかっただけなのか、おそらく判断はむつかしいだろう。なかなか惜しいと思う。彼の好奇心は360度に飛ぶ。その他にも吟香が先鞭をつけたことは多く、巧みな広告戦略、石油の掘削(失敗)、蒸気船定期航路の開拓、天然氷の販売、日本広告株式会社(のちの電通)創設に関わる、盲唖学校の設立、楽善堂(点薬や図書の店)の中国進出と日中交流、など。ちなみに四男は岸田劉生。

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