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2016年11月13日
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カテゴリ:中江兆民


さて、植木枝盛の戦略はどうだったのか。最初の大きな仕事は1877年、西南戦争参加に待ったをかけて、立志社建白書を起草したことである。建白は政府の失政を8項目に渡って指摘した上で、国会開設、租税の軽減、不平等条約改正、地方自治の確保、政商に対する保護政策反対などを要求したが、これは全国的な自由民権運動の基本的要求になった。/[^


特に地方自治を求めて、立志社は民会を県会、大区会、少区会の三種に系統化した。民会は地方自治の組織であると共に、民権派は少区会から大区会、土佐州会、県会と積み上げ、ついには国会を実現すると言う構想を持っていた。これらは、県令や政府の一篇の命令で挫折する弱点はあったが、発想そのものは非常に先進的だっただろう。


愛国社は1879年の大阪で開かれた第三会で東日本の結社が加盟し、全国的展開になった。これを期に国会開設運動が全国的に広がった。1880年第四会の時に加盟27社代表の他に50余の団体が参加し、愛国社とは別に国会期成同盟を結成、国会開設を求めた。期成同盟はやがて1881年の自由党結成を決定、運動母体は自由党に移行。この間に、国会期成同盟が各組織で憲法見込案を持参研究することを決議したために、全国で50余の憲法案が起草された。


あとで詳しく述べるかもしれないが、この時の民衆憲法の創造は、質量共に日本の民主革命の理論的な土台が最も高まった時なのかもしれない。明治12ー14年の民衆憲法の起草者たちの表を見ると、日本の草の根民主主義の、この時代の民衆の教養の高さが伺いしれる。一つは、野に放たれた武士階級の教養の高さかもしれないし、寺子屋に代表される武士階級以外の民衆の識字率の高さが反映していたのかもしれない。これらの草案は、1880年(明治13年)、国会期成同盟第二回大会で提起され、翌年の大会で検討される予定であったが、明治14年の大きな出来事で「まぼろしの憲法」に終わり、これ以降日本で憲法構想が本格的に論じられることは、1945年の敗戦後までなかったのである。






最終更新日  2016年11月13日 18時44分22秒
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