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カテゴリ:水滸伝
「岳飛伝15」北方謙三 集英社文庫 ふり返ると、雄州の城郭に、旗が翻っているのが見えた。 戦だけではなく、すべてのことが、自分が考えていることの、先へ先へと行く。 あんなところに、あんな旗を掲げることなど、候真は考えてもいなかった。楊令が帝になるべきだと、酔っては言っていた戴宗のことが思い出される。 候真は、雄州の城郭に背をむけて、歩きはじめた。 体術を競った褚律が、心を病んでいる。自分は、ただ酒に溺れている。そして、酔うと、死んだ者のことしか思い出さない。 老いるとは、こういうことなのだろうか。 山道になった。候真は立ち止まり、気息を整えて、また歩きはじめた。(389p) 読み終えた。あと二巻だ。それこそ「気息を整えて」読んでいかねばならない。戴宗が酔いながらでしか主張できなかった「楊令戴帝論」は、この水滸伝シリーズが始まった時に多くの読者が「歴史的事実じゃないからあり得ない」とは思いながらも、当然そうなのだろうと思っていた道だろうと思う。それと違う道を模索した為に(何しろモデルはキューバ革命なのだ)、第3部に移って、かなり(おそらく)読者を減らしながらもこういう展開になっている。秦容などは、「中華に二つの国家があっても、国境は有名無実で、やがて消滅する。国家を支えるのは、物流である。」という「くに」を夢想して、その為に「命を投げ出す」覚悟を決めた(323p)。後の世の私などにとっては、それはあまりにも甘い考えの様に思う。しかし、物流そのもの、商品そのものの正体がわかっていなかった時代に、彼らの夢を嗤うことなどができるはずもない。候真の戸惑いも無理からぬことだ。 「自分が死ぬのだろうと思ったとき、それこそが人生なのだと、私には見えてきたのだよ」(247p) 「やるだけやって死ぬ、でも。インコが言う。でも、は崔如が教えたら、いつの間にか言うようになっていた」(353p) 私の人生も、彼らと同じく、未来は見えない。やるだけやって死ぬだけだ。 しかし、褚律が放っておけない(^_^;)。 2018年2月読了
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今、世界史の授業では宋の南渡、そして金と戦うか和平かと言うところを取り上げています。岳飛は秦檜に謀殺されます。南宋は金の臣下と言う屈辱的な和議を結び、150年の平和を手に入れます。
しかし、岳飛は救国の英雄として廟に祀られ、秦檜はその参道に膝まずいた石像が作られて、備え付けの棒で打ち据えられ、唾を吐きかけられています。 闘うという方向に行っていたら、南宋はほぼ確実に滅亡しているでしょう。 岳飛と秦檜の評価は現在の中国でも変わっていないのでしょうか? (2018年02月12日 22時10分15秒)
まろ0301さんへ
現代中国の評価のことはわからないのですが、最近できた中国ドラマ「岳飛伝」によれば、秦檜はまるきり悪役には描かれてていないようです。 この作品は、秦檜によって殺されなかった場合のその後の岳飛の姿が描かれているのですが、このシリーズの主人公は全員死ぬので、おそらく最終巻は見事な最期とを遂げるはずです(^^;)。 思えば、漢民族というのは強かな民族です。何百年も外民族に支配されながらも、何十年も社会主義に支配されながらも、結局「漢民族の歴史」しか作ってこなかった。 いま、北方謙三はモンゴルを舞台に小説を書いているようですが、また四年後ぐらいにこのシリーズの感想を書くことができそうです。 (2018年02月13日 09時31分18秒) |
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