|
カテゴリ:考古学
出雲旅に出掛ける前日の5月26日、現地説明会に行きました。先ずはそれを紹介してから、出雲旅レポートをします。倉敷市船穂町柳井原にある、南山城跡(戦国時代)、南山明地古墳群(古墳時代)、南山明地遺跡(弥生時代)の現地説明会にいって来ました。私の関心は弥生時代なので、他の時代については軽く流します。 場所は山の北側に天狗山古墳、勝負砂古墳、二万大塚古墳という、五世紀の重要な古墳のある山並みの南側に位置する標高67mの低丘陵。大きな目的は山城の解明なのですが、その中で弥生時代の集落跡も見つかりました。写真は、竪穴住居跡の隣の土坑から見つかった土器。これによって、弥生中期の遺跡(南山明地遺跡)と判明しました。 住居底に穴が開いているコップ形土器も、見つかりました。つまり実用土器ではない。ということです。だとすると、この穴も普通の穴ではなくて、墓であり、ここで供献儀式が行われたと見ていいでしょう。こんな早い時代に、しかも小さな土坑墓で、のちの楯築に繋がるような儀式があったことが何よりも驚きでした。 鏃は戦争用にはあまりにも小さい。狩り用の鏃でしょう。サヌカイトもあった。讃岐との交流もしていたことの証です。 こんなのも出土していたらしい。 遺跡の上空写真。ドローンを使ったのかな。最近はこんな写真が簡単に撮れるから素晴らしい。 さて、山に上がるぞ! これが土坑の跡。 竪穴住居跡。 弥生遺跡の北隣に古墳時代の遺構(南山明地古墳群)が残っていました。2ー4号墳を発掘しています。丘陵尾根状に並んで築かれている。直径10、9、14mの円墳です。時期は古墳時代前期後半から中期前半(4世紀末-5世紀初)。 1番大きな14号墳が詳しく調べられています。二つの埋葬施設があり、木棺の底に他から運ばれてきた礫が敷かれ、鉄製品(鉾・鍬鋤の刃先・鎌)と滑石製臼玉が副葬されていました。 これだけ尾根状に古墳が続いているのならば、山城があった1番眺めの良い場所に墳墓がないわけはない。実はそれはこれから発掘するらしい。築城で壊されているかもしれないが、期待はされる。円墳側から山城を眺める。 山城(南山城)について、少し。1582年(大正10)、備中松山城水攻めのあと、秀吉と毛利が講和を結びます。1583年(大正11)、毛利が高梁川以東の城を明け渡します。写真では、川の上側が「以東」になります。高梁川以西に、それまであったこの山城は、その直後にキチンと整備されたらしい。 住むためのお城ではなくて、あくまでも兵士が集い、拠点砦のためのお城だったようです。詳しい説明は省きます。 この丘陵は、山城に選ばれることからも伺えるように、古代の環状線だ高梁川を監視するためにも、非常に便利なところでした。 では、あの弥生遺跡は高地性集落なのか?しかし、円墳の下に集落はなかったと、ハッキリしているらしい。山城の下はまだわからない。 吉備の王国の西側集落の拠点が、おそらくこの辺りにあったことを伺わす遺跡かもしれない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018年06月10日 11時40分05秒
コメント(0) | コメントを書く
[考古学] カテゴリの最新記事
|
|