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テーマ:本日の1冊(3685)
カテゴリ:読書(ノンフィクション12~)
「終わりと始まり」というエッセイ集において、2012年末の衆院選挙結果にかなりがっかりしたようで、池澤夏樹は以下のような文章を書いた。池澤夏樹の「思想」が、ある程度明らかになっている部分だと思うし、私は明確な違和感を覚えたので、演習ゼミの先生たる池澤夏樹先生に物申してみたい。 「物語」の喪失(「終わりと始まり」より) 「分岐点は1968年だったのだろう」と池澤夏樹は書く。それまで、「マガジン」も「ガンダム」もゲームも理解できなくても、文学があったから、「世の中は良くすることができる」「そのためには社会は変えることができる」(ここに飛躍があるのだけど、加藤周一風に解釈すれば、そのためには人の価値観を変える必要があるので)「文学は役に立つ」と思っていたという。 「五月革命がなしくずしに消滅して、つまり革命という大きな物語が失われて」「あのあたりで人は革命という物語がないままに生きる道を本気で探り始めたのだろう。大東亜共栄圏も社会主義も、民主主義さえ、たぶん幻想」(162p)と池澤夏樹は書く。革命をあきらめたから、村上春樹が読まれている、ゲームが流行っている、と池澤夏樹は現代を「分析」する。 そういう「フレーム」を宇野常寛と古市憲寿の本を読んで思ったのだという(加藤周一ならばこんな本は絶対読んでいないだろうと思ったが、それはまた別の話)。 私も正直、革命が来る、ということを信じられなくなっている。だからと言って「大きな物語」がなくなったという実感はない。何故ならば、私には考古学があるからである。一年間のうちの大晦日の午後に、人々は「文学」を獲得して「戦争」も始めた。けれども夏の頃から既に「物語」は繰り返し繰り返し語られていて、人々は世の中を変えて来たのだと、私は信じている。「今日はちょっと大変だったけど、1日の終わりになってなんとか平和を取り戻した」そんな物語があと少しして語られる時が来ると信じている。 池澤夏樹先生、私の意見、間違っていますか? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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