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テーマ:韓国!(16885)
カテゴリ:韓国旅行2012
全南大学は光州駅の北側にある、おそらく光州一の大学である。ここから学生運動として、1980年の5月14日、全南大学の学生デモから始まり、瞬く間に全光州学生、教授へ広がり、そして3日間に市民に広がっていったのである。だから、5.18民主化運動の始まりは全南大学のこの正門と言っていい。 壁絵を探そうとして、地図を見る。ひとつひとつ探せばまるまる一日かかりそうだ。 ところが、この時博物館(반물관)の文字が見えた。大学博物館ならば、古代遺物展示があるかもしれない。全くノーマークだった。国立光州博物館はたいしたことなかった覚えがある(とずっと思っていて、かえってpcのなかを探すと、なんと光州博物館は行っていないことが判明した。交通の便が悪いので、避けてきたのだ)。ここはどうか。 一階はブロローグなのに、なかなかのレプリカ遺物がある。支石墓や露天窯、甕棺墓である。これだけで終わらないよね。 恐竜の遺物もなかなかすごそうだ。 二階に上がる。おお、凄い。以下展示物。以下長くなります。考古学に興味ない方は、明日以降お楽しみに。正直、分かりやすい展示だった。以下、旧石器時代の遺跡。 和順 牟山里遺跡の旧石器。 7000年前に新石器時代になると、土器を作り、定住生活を始めている。しかし、この時代のどの段階で定住を始めたのかよくわからない。期間があまりにも長いからである(4000年間?)。 麗水の土器と貝石器。 青銅器時代。ここでは3000年前(BC10)から始まったとなる。ほとんど弥生時代にかぶるが、弥生中期ぐらいから鉄器時代も同時に始まる。弥生晩期ぐらいに原三国時代が始まっているようなのだが、厳密に知りたい。でも、この展示ではよくわからなかった。 全部磨製石器、磨製鏃。 紅陶。既に表面の飾りは無くなっていて、弥生土器とにているが、作成技術ははるかに朝鮮半島の方が上だと思う。 和順の茶智里 支石墓群遺跡。磨製石剣さの美しさ。 順天(순천)の西坪里(서평리)支石墓群遺跡。土器は割れているが、独特の彩文が既にある。 宝城(보성)礼堂里(예당리)支石墓群群。何と言っても、石剣の独特の石紋が特徴だ。日本では見たことない。 宝城(보성)松谷里(송곡리)支石墓群。こちらも石剣の模様が。そして見事な土器の彩文。 原三国時代に移る。既に鉄器は製作しているし、青銅器も複雑になってゆく。光州なので、ほとんどは馬韓(마한)の遺跡の展示になる。赤いところが馬韓である。右下の人物は祭器を身にまとった族長のはずだ。あの像は全州博物館に行けば出会えるはずだ。 青銅器製の何チャラ。鉾だったかなあ。すみません、メモ出来ていない。(←shunshunさんによると、左が銅剣、右が銅戈らしい) 鉄板や滑車のコマ、ミニ土器(祭りに使うはず)、勾玉(倭国の影響?)、スプーン等々独特の遺物が出現する。 宝城(보성)金坪貝塚(금평패총)。もはや、支石墓ではなく、貝塚の発掘になっている。占い用の骨、鉄板、青銅器の型などが出土。 独特の土器がでてきました。 馬韓の生活像。稲作の道具や布を作る道具が出るらしい。 光州のこんな都市開発から出土したみたいだ。 更に時代は下り、三世紀ぐらいから木棺墓になってゆく。鉄剣が出土。土器の形も変わっている。 これは、함평ヒャンピョンの礼徳里(예덕리)古墳群。この丸いし、少しひしゃげている壺が特徴なのかな。既に焼き方は須恵器かかっている。 巨大な甕棺墓群。 羅州(나주)の甕棺墓(옹관묘)から出土。 これは何処の甕棺墓か、メモ忘れた。 馬韓の石室墓である。 更に墓の系統図を作っていた。そこで全南大学の学術的な時代区分が明らかに。つまり、 ・1ー3世紀は、木棺墓、土坑墓、甕棺墓であり、馬韓時代。 ・4ー5世紀は、百済の間接支配のもと、石槨墓、甕棺墓、甕棺古墳。百済はソウルに宮があった時代だろうか。 ・5世紀後半は、石室墓に統一される。百済の間接支配であるが、公州に宮があった時代だろうか。 どちらにせよ、ここは百済の支配地域であり、その意味でも、この後出てくる「前方後円墳風の古墳があるから、伽耶地域は大和の支配地域である」という論理はもともと破綻しているということになる。 麗水の美坪洞(미평동)古墳群。銅鏡と首飾りと勾玉が気になる。 百済の石室墓である。やはり古墳の系統図があるが、前の表とどのような関係にあるのか、イマイチわからなかった。 羅州の伏岩里(복암리)1号墳。馬韓ー百済時代らしい。 長城 鶴星里 古墳群。 前に苦労してたどり着いた、韓国の前方後円墳と言われている、光州 月桂洞(월계동)古墳群のレプリカがあった。ここでは、前方後円墳ではなく、長鼓墳と表現されていた。 見てわかるように、堀を巡らしていることや、周りをびっしり器台型埴輪のようなものを巡らしていること、横穴式石室となっていることは、前方後円墳と似ている。しかし、木製埴輪(?)や、傘型埴輪(?)の存在は、日本にはないだろう。そもそも五世紀段階ならば造り出し祭祀の跡が無いとおかしい。また、前方後円墳の形も日本にはあまりない歪さがある。 これが、その問題の「墳周土器(분주토기)である。初めて見た。思いかけない収穫だった。埴輪型土器も、よくにているが、なんとなく歪さがある。 馬韓の長鼓墳の説明である。翻訳が面倒なので、訳していないが、だいたい5世紀後半から6世紀にかけて馬韓地域に、長鼓型の古墳が作られたと書いているようだ。 馬韓地域には、これほど存在している。光州よりもかなり北、公州近くにもある。 他の土器も、明らかに須恵器型の技術になっているし、伽耶地域特有の土器が多い。 このようなものも出土しているらしい。 石室の作り方も、全然違って、むしろ公州遼寧王の石室そっくり。 あとの時代はざっと流します。 恐竜化石もファンがみたらすごいのだろうけど、ざっと流します。ものすごい量の写真を入れました。これでも三分の一以下に抑えたのです。本来ならば2回に分けて紹介すべき記事ですが、皆さんあまり興味無いと思われるので、一回で済ませました。明日はいよいよ、全南大学に来た本当の目的に迫ります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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