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テーマ:ニュース(99408)
カテゴリ:社会時評
元号が決まった日は、一日中映画を観ていた(三本ハシゴをした)。テレビも何もかも元号一色になるのが嫌だったからだ。案の定そうなっていた。 私には既視感がある。1989年の1月の数日間である。あの時は、CMも「自粛」されていたから、余計に息苦しかった。私は「元号なんて、もう二度と使わない」ということを謳った「詩」を書いて、職場の「職員交流」を目的にした会報に投稿して、それが載った。自由な職場だから当然だと思っていたが、あとあと私ではなく、会報担当者が上司から叱責されたということを聞いた。「取引先にも配られてているのだから、こんな詩を掲載する時は気をつけるように」と言われたらしい。思えば、この経験があの職場に見切りをつける始まりだった。実際に去るのは、それから16年も経った後なのではあるが。私はホントにその後ずっと元号は頑なに拒否した。けれどもある時からは使い分けるようにはなった。公文書作成で、選ぶことが出来ない場面が増えたからである。 加藤周一は、「廃元号論または『私と天皇』の事」(『言葉と人間』(1977年))において、元号を廃止した方がいいだろう、と述べる。根拠は3つ。 (1)元号の存在が人民主権から逸脱していること。 (2)元号の文化的歴史的印象が西暦でも代替できること。 (3)西暦の方が便利であること。
(1)については、日本共産党も「元号は、時を皇帝が支配するという中国の考え方からきているので、国民主権の憲法に馴染まない」と言っている。私は規模的に賛成だ。 (2)については、「平成の時代」という表現は必要だから、元号は残した方が良いと言う人もいる。。加藤周一は言う。「しかしそういう反論をする人々の何人が、たとえば美術史家のしばしば用いる「弘仁仏」「貞観仏」という表現と、「九世紀の前半および後半の仏像」という表現の、どちらを容易に理解するだろうか」。「〜の時代」という言い方は、私は必ずしも元号は必要ない。と思う。江戸の庶民には元号は全然一般的ではなかった。一般に使われていたのは元号ではなくて、干支である。丙午などの歳は、60年に一度やってくる。それならば、文章前後の意味で誰でもわかるからだ。江戸時代では、元号は幕府の意向できまったので、4人の天皇の代始めの改元はなかったらしい。改元のお知らせなどは、庶民までは届かなかった。代始改元が決まったのは、明治からである。「平成の時代」は、現代メディアが作った「幻想」である。テレビの製作者も、それを重々承知しながら、視聴者にミスリードさせている。私は、それが気持ち悪くて仕方ない。 (3)は、圧倒的に西暦の方が便利だ。「西暦もキリストの誕生日を記念して作られたに過ぎない」という批判がある。その通りだ。でも「時を支配者が支配する」という思想はない。 それでも、メディアは、改元が当たり前という前提で報道する。それが気持ち悪くて仕方ない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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