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カテゴリ:山大新聞会
9月14日、おそらく20数年振、卒業して36年ぶりの新聞会同窓会で、山口に行きました。同窓会レポートをするつもりだったのですが、やはり何処に行っても遺跡めぐりはやめられません。どっちつかずのレポートになりました。3日分を3回で終わらそうと思ったけど、無理みたいなので、6回連載になります。前半4回は、古代レポートが含まれているけど、山大新聞会にカテゴリーさせます。 新聞会メンバーの詳しい紹介は出来ないけど、例によって旅レポートだけはしておこうと思う。今回は軽四を飛ばして、4時間半かけて来た。小郡インターで降りて、先ずは向かったのは朝田遺跡(どうしても古代レポートになる)。ところが、住所を調べて地図アプリに入力しても一向に場所を示さない(どうやら遠に消滅した住所だったのかもしれない)。朝田のコンビニで、ダメ元でで朝田遺跡の場所を聴くと、なんと教えてくれた。これは遺跡巡らーにとってはとっても珍しいことです。どうやら維新公園の中にあるらしい。「20年前のことだから」とオーナーは詳しい場所は、わからないようだったが、それなりにこの遺跡の発掘は大きな出来事だったようだ。少し迷ってたどり着く。 どうやら小山の上にあるらしい。国道9号線を作るにあたって、発掘された遺跡であり、国道のトンネルの上にあった。国指定になっている。道理で綺麗に復元されてあるわけだ。 私はメインは古墳時代で、弥生がかすっているのかと思いきや、そうではなくて、弥生から古墳にかけてずっと続いていて、しかも大きくはないが、土壙墓や周溝墓、壺棺墓や石棺墓などあらゆる弥生墳墓が集合している、墳墓群だった。これだけ多くの墓がいっぺんに集まっているのは、珍しい。 しかも、山口県には、後期弥生遺跡が無いと聞いていたので、「あるじゃないか!」と思った。 そのあと、実は大学時代下宿していたところへあいさつに向かった。既に住所も名前も忘れていたので、たどり着くだろうかと心配していたが、もしおられた時のことを考えて倉敷名物「むらすずめ」の5個入り1番安いやつ(おられたら夫婦2人暮らしなのでそれで十分)は買っておいた。なんと一度も迷わずにたどり着いた。自分でもびっくり。25年ぐらい前に一度あいさつに伺ったことがあるのだが、よく考えたらあの時はバスで行ったのだ。 家は空き家みたいになっていた。あの時は離れを利用して2部屋だけを下宿にしていた。四畳半一間一か月1万円という破格の下宿代だった。二人だけの共同でトイレ風呂が付いていた。これなしでは、奨学金5万、仕送り3万、アルバイトもせずの生活はできなかっただろう(食費は外食ばかりで4万、部屋代1万、あと3万円で本や諸経費を作っていた)。それなのに私は卒業時、軽く荷物をまとめて、掃除もせずに、バタバタと出て行った。確かまだまだ小さな荷物もあり、風呂やトイレはかなり汚かった筈だ。あとで、なんと失礼なことをしたのかと思った。25年前に一度詫びて許してもらっているのだが、思い出すたびに恥ずかしい。この一部屋から田んぼの風景がいつも見えた。冬は必ず雪で真っ白になった。盆地の山口は必ず雪が深く積もるのである。ここから見える風景は、なんと36年前と少しもかわっていない。ここは、町から遥か離れた郊外の下宿宿だったのである。最初の1年は自転車で通っていた筈だ。でも、高校の延長だから、なんとも思わなかったようだ。この日は離れに甥が一人で住んでいた。家の売れるまでの管理として住んでいるらしい。叔母夫婦は3年前に亡くなったらしい。手土産を置いてお礼を言って帰った。 山口大学に行ってみた。 教養学部、1番2番教室。ここで大学祭の講演をやった。 この前で、いろんなチラシを撒いていた。今日は土曜日で人っ子ひとりいない。昔は土曜日は休みじゃなかった気がする。 人文学部。そうだった。こんな建物だった。不思議なことに何一つ思い出がない。何処に自転車やカブを止めていたのか、一切思い出せない。それほどまでにここで学問をした覚えがない。 新しく学生施設を立てるにあたって発掘したらしい。ここへ来た目的の一つは、ここの遺跡を見るためだ。 山口大学埋蔵文化センター。 その前に、遺跡から移設した墓石があった。 ここも、遺跡跡。 もう一つの目的は、ここの学食で昼食をとること。ところが、土曜日は休みだって?なんてこった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019年09月21日 14時11分11秒
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